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2019年03月03日|お知らせ


2007年01月12日(金) 

アール・ブリュット。

アール・ブリュット art brut―デュピュッフェが1945年以来唱えている反美術的教養、反プロフェショナリズムの美術運動、皮肉な主題やあらゆる手段を利用する手法において前衛派を含む伝統的な専門美術の常識を破るだけではなく、古新聞、アスファルト、古壁、鉱滓などありあわせの材料を活用する、いわば野生の美術、ブリコラージュ美術。(クロード・レヴィ=ストロース:『野生の思考』注釈:p332)

ヘンリー・ダーガー

以前、「芸術新潮 11月号」を購入したのは、表紙の絵がヘンリー・ダーガーだったからだ。ヘンリー・ダーガーは(私にとっては)特別な存在であり、最初に彼を知ったのは斉藤環の『戦闘美少女の精神分析』でである。

その人生と作品は、なぜか(というかある意味当然なのだが、私を)魅了しダーガーの画集を私は購入した。

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

ジョン・M. マグレガー (著)
John M. MacGregor (原著)
小出 由紀子 (翻訳)

2000年5月25日
6825円(税込)


「At.Jennie Richee」 Henry Darger
「At.Jennie Richee」 Henry Darger (配布チラシより)
http://www.shiseido.co.jp/house-of-shiseido/html/exhibition.htm

ダーガーの絵は、それは彼の『非現実の王国で』という物語の挿絵である。それはまさに、戦闘美少女(ヴィヴィアン・ガールズ)の物語であり、戦闘美少女の原型を見る思いだったが、おちんちんのついた少女の絵は(当時の私にとっては)かなりやばいものに映った。しかしそこには孤独の悲壮感はなく、ただ 自らの物語の中で、創造主として振舞うターガーがいる、と感じた。

アール・ブリュット

ダーガーの絵は、日本では「アウトサイダー・アート」として紹介されることが多い。それは「アール・ブリュット」(art brut)の米語訳の読みだが、しかしいくらなんでも「アウトサイダー」はないだろうな、と思う。

松本国三「アール・ブリュット」は「加工されていない生のままの芸術」という意味のフランス語の読みであり こっちらの概念の方がしっくりくると(私は)思う。(写真:松本国三:『芸術新潮 11月号』:p76:撮影=広瀬達郎)

けれども それが意味するところの解釈もいろいろあり、中には「かわいそうな人たちの描いた……」というような、気に入らないものもある。それは同情的なんだろうが これは創造性がなんだかわかっちゃいないだけだろう。そしてどこかで人間が野生的にもつ創造性見下している。

私は「アール・ブリュット」とは、人間の創造力が働く構造を、あからさまに見せてくれているものと考えている。そこには共同体的アイデンティティは微塵もなく、ただ個人の創造力とデータがある。データを提供しているものは、消費社会か宗教的な環境であり、つまりそれは社会(人工環境)である。つまりその意味で彼らは社会とつながっているのであり、アウトサイダーではない。

ただ社会という外延の外側――高次元と彼らはその創造性を持ってつながっている。つまりそれは、ダーガーの物語の題名のように、日常性ではなく非日常性としてである。だから常識的な人々(?)から見れば、これは「かなりやばい」と感じるのも確かだろうが、しかしそれが、今という時代に、人間の創造力が働く構造をあからさまにしていることはたしかなのだと思う――われわれの想像力を喪失させたものは「野生の思考」を喪失させたものと同根でしかない。

彼(女)らの作品が 常識的な(?)私たちに問いかけてくるものは、退屈な日常の中の創造性である。それは退屈な日常をつくりあげているモノの(一部)否定からしか始まらないことで、つまり「原初創造性」の欠如が退屈な日常なのだと思う。岡本太郎曰く、『合理に非合理を突きつけ、目的志向の中に無償を爆発させる。』である。

野生の思考と考える技術

アール・ブリュッドは、(ある意味)快楽としての創造―想像性に満ち溢れている。消費社会全盛のニ十世紀の真ん中で、象徴界が機能しなかったゆえに生まれた、データベースモデル((c)東浩紀)的ブリコラージュだ――と(私は)思う。

創造性の基本構造つまりアール・ブリュットは、ブリコラージュであるがゆえに、「野生の思考」なのである。そこでは創造性-「考える技術」の基本構造が露出しているように思う。(左の図:この図の解説は「宗左近さん(象徴の帝国)を参照してほしい)。

ただ、「考える技術」は、ブリコラージュのための材料を、「ことば」による対象のデコードによってデータ化し、日常の一部否定による創造性の機能を利用する。

一方アール・ブリュットは、ことばという象徴そのものを、一部または全部否定することによって生まれ得る創造性である――ギャル文字は同じ基底を持つと考えている。

私の創造性-「考える技術」は 中途半端に 「象徴の一部否定」としかいえないことで、ちょっとだけ「アール・ブリュット」なのである。それは近代的な日常に慣らされたわれわれが、少しでも「野生の思考」に近づこうとする――創造性を取り戻そうとする――けなげな試みであるかもしれない。その上、「それをわかっていてあえてそうする」のだから、中途半端と罵倒されてもかまわない。しかしそれは、今われわれが出来うる、ぎりぎりの選択なのだと(私は)考えている。

  • 参考文献
    クロード・レヴィ=ストロース:『野生の思考

投稿者 momo : 2007年01月12日 00:07 : Newer : Older

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コメント

この本ご存知ですか。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31929097
アールブリュットとは関係ありませんが、鬼気迫る絵の迫力に圧倒されます。

投稿者 ベッシー : 2008年12月15日 22:23

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