大福園の豚足午前7時40分起床。浅草は晴れ。昨日は山鹿からお客様がおいでになられ夕餉をご一緒した。コースは、浅草コリアン街居酒屋浩司岩手屋という(今の私の土曜日の)黄金コースである。(写真:豚足:大福園にて

差異

それは私の日常であることで、例えば昨日書いたような地方都市の均質化のような「ものの考え方」の基底になっている。つまりそれは、二項対立であり、差異の認識のための、構造を認識するための、眼鏡である。


悪党的

その意味で言えば、山鹿の方々に、この浅草のアジール性は違和感(差異)の少ないものとして写ったのではないだろうか。それは私が山鹿に感じていることの裏返しでもあるようにだ。

山鹿は、縄文の地層が日常の中にせり出している。その歴史(というかお墓=古墳)の上に積み重ねられた狩猟民族的→商売人的な、よい意味での「悪党的」に満ちた街だと(私は)感じている。

そしてそれは浅草と似たようなものであることで、「浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。」ような、単純には閉じていない、つまりひねり(ツイスト)を孕む円環(メビウスの帯)としての共同体性である。

そんなものを、山鹿の方々にも感じていただけたなら、幸甚なのである。