JOY YUKI
YUKI - JOY (live at JOY Tour)


午前7時起床。浅草は雨/くもり。天候はよくないけれどもなんとなく暖かい日だ。「ワンダーライン」について書きながら YouTube でYUKIを見ていて、便利な世の中になったもんだ、などと唸ってみぜるのは年寄りのパフォーマンス(サービス)でしかないが、「ああ、そういうことなのか」とひとり合点してニヤニヤしているのはサービスではない。それは「JOY」のライブビデオをみてのことで、この暮れのぼんやりした時間にまたしてもYUKIについて書こうとするのは(私は)音楽に嫉妬しているからだろうなと思う。

(これを書けば下品にしかならないが)「嫉妬している」について説明をするなら、それは私の意識のネットーク(つまり言葉だ)で音楽を捉えきりたいという欲望であり/しかしそうできないことへの落胆/しかしあきらめきれない根性の悪さである。つまりすべての音楽はテクスト狂の私には反則でしかない

「JOY」は軽快なダンスミュージックだ。心臓の鼓動のようにベースラインが刻まれる音楽はそれだけで子宮的構造を持っている。胎内で子供の聞く音なのである。であればそれは想像界的な安心感に溢れる。しかしどこかに哀愁を孕むのはこの歌がせつない歌詞を持つためであって、それ(歌詞)については後述するが、今回の「なんだこれは」はライブにおけるコミュニケーション手段としてのダンスから始まる。

JOY YUKI

「JOY」におけるオーディエンスの反応はステージ上のダンスパフォーマンスにあわせて観客も踊る、というよりも同じ動きをすることに特徴がある。それは単子の同期運動=コヒーレントのようなものでシンクロシステム=盆踊り的でもある。しかしこの「ワンダーライン」は盆踊りと違って円を描かない。ただの整列する単子であるのは、ためしに音を消してみればわかるのだけれども、それが手旗信号のような交話であるからだ。

観衆は鏡像を求めていて鏡像(母)に向かって交話を試みる。その鏡像こそがYUKIであって観衆の臍の緒はYUKIにつながろうと試みる。YUKIもまた観衆を鏡像にしているのは説明不要だろうがそれ以上のものでもない。それは例によって乳臭いのだけれども音楽はそもそもそういう強度の次元で成立している(だから反則なのだ)。しかし問題は今日の雨このコミュニケーションっていったい何よ、なのである。

同期することは幸福感に満ち溢れている。同期はいつだって脳みそに高揚感を与える。しかしここにある同期は〈他者〉の人格的なものを経由した同期であるわけもなく、ただYUKIというハブに向かって野生的に無意識的に乳臭い想像界的次元で同期は進む。この一体感。思い出すのは映画「ANTZ」のアリダンスだ。「よおーしみんな6時15分だ。ダンスの時間だ」なのである。彼(女)らはみんな一匹の女王蟻から生まれた兄弟姉妹なのだ。

それは母と乳飲み子のコミュニケーションかサルの交話か。私たちはとても乳臭いところへ回帰している。そのことで接点は想像界的(鏡像)になりそこには言葉は必要ない。去勢は益々不全なのであって、私たちは単なる単子であり自分で自分を考える(反省)なんていう面倒なことは放棄する。そこにに言葉はいらないのである。

鏡像による自己確認がリスザルのチャクコールニホンザルのクーコールのように「チャック・チャック」や「クー・クー」だけですむなら「分離―不安」は動物的に機能するだろう。一番の問題は〈仲間/仲間でない〉ことなのである。そこでのコミュニケーションは〈内/外〉〈味方/敵〉の確認だけで十分なのであり〈私〉の生活はそれ以外を要求しないだろう。(以上『Re:[宇宙人来訪、か?]―「空気を読む」コミュニケーションには豊かな語彙や適切な統辞法や美しい音韻は無用のものであるということについて。』より)

言葉なきダンスコミュニケーションは交話の域をでていないように(私には)思えた。ただ本能的にコヒーレントしている動物化的一体感。このライブにはコール&レスポンスはない。ボブ・マーリーは死んだのだ。Get Up, Stand Up も必要ないのはこの神経症の時代に戦う相手なんて〈自分〉ぐらいしかいないからだ。そうみんな子宮に接続しながら自分自身と戦っている。だから「JOY」の歌詞はせつない。心は〈私〉の矛盾を捉えきれず

しゃくしゃく余裕で暮らしたい
約束だって守りたい
誰かを愛すことなんて
ほんとうはとても簡単だ

と言ったかと思えば、

いつまでたってもわかんない
約束だって破りたい
誰かを愛すことなんて
時々とっても困難だ

なのであり、あっちに行ったり/こっちへ来たりなのである。だれもそれに答えなどくれない。母親たるYUKIだって「いつまでたってもわかんない」なのである。ほんとうは「うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ」のだけれども

確かな君に会いたい
百年先も傍にいたい
どんなに離れ離れでも
ふたりをつなぐ呪文はJ・O・Y

死ぬまでドキドキしたいわ
死ぬまでワクワクしたいわ

と観衆を突き放す。YUKIはダンスという交話で仲間の存在を確認している。それに対して観衆はダンスという交話で仲間であることを伝えている。しかしそれ以上のことはない。答えを教えてくれと乞われてもYUKIはダンスという交話で突き放す。観衆はつながりたいかもしれないけれど―YUKIは突き放す。観衆はつながりたい―YUKIは突き放す。そういう堂々巡りの繰り返しのうちにこの曲が終わるのは私的にはまったく正しい。けれどもどこかでせつないな、と思う。