内田樹による内田樹

内田樹による内田樹

内田樹(箸)

2013年9月20日

株式会社140B
1680円(税込み)


内田樹による内田樹

午前6時45分起床。浅草はくもり。この本は140Bが送ってくれたものだが、間違いなきよう書いておけば、あたしは内田樹先生が好きだ。

しかし先生が本性を発揮されるレヴィナスについての記述については、まことに申し訳ないが、なにかとっかかる切っ掛けにでもなれば、と思うのだが、いまのところ全然切っ掛けにならないのである。つまりあたしはレヴィナスについて内田樹先生から教わったことはない。

だからこの『内田樹による内田樹』という本は、p89~p180のレヴィナスに関した処はなにも云えない(読まなかったわけではない)。しかし他の処に関しては書ける。特にp18~とp181からの文章は何時もの内田樹先生だと安心して読める。

いや、安心したどころが、言葉が過剰になっている。例えば『下流志向』はあたしも感心して読んだ記憶があったが、ここに記されたものは当時のあたしの理解を超えている。例えば、「学びからの逃走」は市場原理が教育課程に侵入してきたことの必然的結果だという。

これは新しい言説でも何でもないが、ここで展開される「グローバリズム」の説明が凄い。つまり反対概念の「ローカル」を説明しはじめるのだが、それがあたしの考える「ローカル」と実は同じである。

「社会的共通資本」は変化を好まない

そして「社会的共通資本」は変化を好まない、とし生身の人間が生きて行くのに必要なものを3つ揚げている。

  1. 自然環境
  2. 社会的インストラクチャー
  3. 制度資本

あたしは地場の建設業の行う仕事を「社会的インストラクチャー」、と読み替えて読んでみた。そうすると「社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の市場的な条件のよって左右されてはなならい。」(宇沢弘文、『社会的共通資本』、2000年、5頁)という引用が大きく響く。

しかしもう既に政治的になっているあたし達(地場の建設業者達)は、政治という「幻想」に振り回されるだけなのだろうか。あたしはご存じの通り「金魚論」者である。中小建設業は「政策的に生み出された産業でしかない」という見解に立っている。この矛盾に答えてくれるものはないのか、と『内田樹による内田樹』を読みながら思案にくれるのだ。