私は、創造性の仕組を、デコード/エンコードというIT用語を援用して表現している。
それはわざと難しくしようとしているからではなく、私の語彙の中では、この二項区分は、とても使いやすいものだからだ。
改めて、この二つの意味を、Web上にあるIT辞書から引用してみよう。
デコードとエンコード
エンコード(Encode)とは、ある規則に基づいてデータを符号化することです。たとえば、「ファイルを圧縮する」「データを暗号化する」「ビットマップファイルをJPEGに変換する」「AVIファイルをMPEGに変換する」といったようなことは、すべてエンコードの一種です。/インターネットのメールでは、テキスト形式のデータのみ使用できるため、画像ファイルのようなバイナリー形式のファイルを添付するときには、テキスト形式に変換する必要があります。この変換を行うこともエンコードと呼ばれ、BASE64などが用いられています。/エンコードを行うハードウェアやソフトウェアは「エンコーダ」と呼ばれます。また、エンコードとは逆に、符号化されたデータを元の形式のデータに戻すことを「デコード」と呼び、それを行うものを「デコーダ」といいます。
(引用:http://dictionary.rbbtoday.com/Details/term2517.html )
エンコードと、ハイブリッドやマッシュアップを、私は同じような意味で使っているが、人間によってつくられたもの(作品)は、ある意味、符号化(デコード)されたデータの集積(エンコード)のようなものだ。
例えば、絵画のような芸術作品は、「ある規則」に基づいた、データの符号化だと理解しているし、中には暗号化されているものさえあり、それを解読していくのは、芸術鑑賞の楽しみでもある。
データ
芸術作品に限らず、私たちが、なんらかの創造性を感じうるものは、「データ」と「ある規則」が働いている。TVで垂れ流される粗悪な芸でも、アニメでも、映画でも、私のテクストでも、どんな陳腐なものでさえ、「データ」があり、エンコードにおける「ある規則」が働いている。
サブカルチャーでは、そのデコード能力の高い人達を、広義にマニアとかオタクとか呼んでいる。彼(女)らの表現は、彼(女)らによってデコードされたデータの、「ある規則」によるエンコードだと考えることができる。それを シュミラークルとかブリコラージュと呼ぶ。
先に、創造にはデータベースが必要不可欠だ、と書いたけれど、データ化とは、一旦符号化さ、暗号化されたデータの固まり(シュミラークル:表徴)のデコードであり、それは、バイナリー形式、つまり二項区分によって行われる。
バイナリー(Binary)とは本来、「0」と「1」の2種類の数字で表現する2進数の意味で、2進数で表されたデータ(バイナリー・データ)や実行形式のプログラム(バイナリー・コード)をまとめてバイナリー形式と言います。コンピュータが処理するデータは、テキスト形式でなければバイナリー形式であると言えます。
(引用:http://dictionary.rbbtoday.com/Details/term621.html )
二項区分
二項区分(バイナリー)は、上記引用のように、0と1(YESとNO)の積み重ねによって解を得る要素であって、論理的、科学的、非対象性思考の基本となるものである。これを二項操作と云う。その基本技術が「指し示し」である。
1¬=0 安全¬=危険 (¬は「~ではない」、つまり否定の意味)
本当は「日本語の構造」で使った画像のような、記号(カギカッコ)を用いたいのだが、HTMLでそれを書く技術がない。なので便宜上¬を使う。
この記号の意味するところは、「工作の時間」の「円環」と同じである。円環は内と外のように、不連続の二状態を表徴する。また、これと同じことを、〈0/1〉、〈安全/危険〉とも書く。このサイトでは、〈合理性/非合理性〉でおなじみだと思う。それは社会システ理論的な記述だけれども、例えば、「コミュニケーション=〈情報/伝達〉の差異の理解」、つまり、「指し示し」で示される対象の同一性を、私たちは通常、その対象の「意味 meanig」と呼んでいるわけだ。つまり、「安全」とは、「危険ではない」の意味である。「危険ではない」の意味の複雑性の縮減が「安全」である。
デコード能力=情報を見る能力
私にとって、デコード能力とは、「情報を見る能力」と同義でもある。そしてそれは、信頼の能力と同義である。
(第1回使用PPTより →PPTは「ダウンロード」カテゴリよりご利用ください。)
私の「考えるIT化」は、この能力を如何に、実践を通して育てるのか、と云うものだが、例えばそこで行うこととは、
観察すること
言語化すること
バルネラブルに表現すること
そして、つながること
だ、と云っている。それは、対象を観察し、その対象を「指し示す」ことと同義である。
私たちが「言葉」を使ってしか対象を「指し示す」ことができないのであれば、そして天才のひらめきを持たぬ凡人を自覚するならば、できることは、これぐらいしかない。才能の無さを自覚している私は、それをとにかく実行してきた。
「特効薬は無い」のである。
と書くと、なにか冷たい印象を受けるかとは思うが、所詮データなんていうのは冷たいものだ。(笑)
野生の思考
しかしそれは、科学的だからそうなのではない。なぜなら二項区分は「野生の思考」の基本特性のひとつでもあり、無文字文化であろうが、文字の文化であろうが、ホモ・サピエンス・サピエンスはこれ(二項操作)を実装している。
〈食べられるもの/食べられないもの〉
〈男/女〉(最近は一部あいまいだけれども)
それを証明してみせたのが、レヴィ=ストロースなわけだ。これについての引用は長文になってしまうので、『対称性人類学―カイエ・ソバージュⅤ』(中沢新一)をお持ちの方は、p17からの『エイによる華麗な「二項操作」』を参照していただきたい。(法大ECではレヴィ=ストロース版を配布予定)
私たちがそこで気づくべきことは、そこにある神話の構造は、同じ二項操作を用いながらも、今の時代の密画化された、科学的な、非対称性思考とは違う、略画的な対象性の創造性もっている、ということだ。
そしてそれは、密画(科学)に対して劣っているわけでもない。つまり、同じ二項操作を使いながらも、神話が、科学的とは違うエンコード(創造)をしてしまうのは、データや二項区分のせいではなく、エンコードにおいて働く「ある規則」が違うのからだ。その「ある規則」が、「神話のアルゴリズム」であることは、第1回講座で既に概観している。
Fx(a):Fy(b)~Fx(b):Fa-1(y)
ここで、「考える技術」は、エンコードのための「ある規則」について、さらに深く考え、そしてそれを自らに実装しよとする試みとなる。
参考図書
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『対称性人類学―カイエ・ソバージュⅤ 』中沢新一(著) 2004年2月10日 講談社 1785円(税込)
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『神話と意味』 クロード・レヴィ=ストロース(著) 大橋保夫(訳) 1996年12月16日 みずず書房 1890円(税込)