宥座の器
宥座の器


宥座の器

午前5時30分起床。足利はくもり。これはなにか。 宥座(ゆうざ)の器である。昨日、足利学校で見たものである。

孔子が魯の国の垣公廟に行くと、金属の器である欹器(斜めに立つ器の意)があった。役人に問うと「座右の戒めをなす器である」という。孔子は「宥座の器は、水が空のときは傾き、ちょうどよいときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れたときにはひっくり返ってしまうと聞いている。」と述べると、果たしてその通りだった。孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い。」と慢心や無理を戒めた。

足利学校 宥座(ゆうざ)の器

満は損を招き、謙は益を受ける。即ち、満招損、謙受益。――つまり、腹八分目でござんす。(笑)

山本夏彦

こんなものを見てしまうと、山本夏彦が言った様うに、二千年前にあらゆる思想は出尽くしたのかもしれないなと思う。

手短に言う。あらゆる思想は出尽くしたと絶望して人類は方向を転じたのである。産業革命である。蒸気機関は残せる。直ちに鉄道、汽船に応用できる。昭和初年特急は東海道を十六時間で走ったとせよ。今は四時間、三時間で走る。飛行機ならさらに速く飛ぶ。

人は何がしたいのか。時間と空間を「無」にしたいのだ。汽車が出来なければ電話がある。電話は時間と空間征伐した。産業革命にもはじめは時間があった。八時間半を三時間にするには十なん年もかかった。もう時間はない、いよいよない。

時間と空間を密接させたがるのは「欲」である。何ゆえの欲かというと人間本来時空がないからである。

完本 文語文

完本 文語文

山本夏彦(著)
2003年3月
文春文庫

時空を超えること(欲)への腹八分目

そう、われわれは、時空を密接しようとしてきた。そこに今、ITがそしてインターネットがある。それはわれわれの欲である。しかしその欲は人間の身体性が許さない欲である。そんな欲であれば、どこかで腹八分目、なのである。そのことを忘れてはならないと宥座の器は教えてくれている。