午前6時30分起床。浅草は台風一過の晴天である。

06091902 (6).JPG昨日のお昼は、雨の混じるあいにくの天候だったけれども、こんな角度で浅草寺の本堂を眺めながら、私はビールを飲んでいた。

普段なら、こんな角度で、日の高いうちからビールを飲むなら、ほぼ廃人扱いだろうが、あいにくそうならなかったのは、これがボーイスカウト関連の行事だったからだ。


06091902 (1).JPGそこでは、簡単な食事もとれたので、私は(ビール飲みながら)うどんと焼きそばを食べた。

これはボーイスカウト台東第七団の皆さんがつくったもので、特にうどんは、色黒で、太くて、もちもちとしていて、不ぞろいで、角ばっていて、子供の頃に食べた、祖母がつくってくれたうどんにそっくりだった。

つまりそれはパトリ(育成環境)性を帯びたたべものであって、無意識層に沈殿している記憶を否が応でも呼び起こす。

それは「私が他ならぬ私である」ことなのだが、皆さんが「おばあちゃんがつくってくれたうどんだ」と一応にいうにいたっては、古いアニメのはなしで盛り上がるような連帯性を感じはするが、「いやお前のばあちゃんのは違うはずだ」という気持ちになるのだが、それもまたパトリなのだろう。

■パトリ(引用:桃語|パトリより)

06041801.jpgパトリを図示すれば、左図の第4象限のことである。

これを露出させる問いは「なぜ私はアナタではない私なのか」や「なぜここが他ならにここであるのか」でり、それは〈私〉や〈ここ〉の根源的未規定性を露呈させる。

それは〈私〉や〈ここ〉が入替不能である理由の未規定さの露呈でもある。