セクシャルなことのメタファーに満ちた暮らしが、日本人にとってふつうのことだったのかもしれません。(三砂ちずる:『オニババ化する女たち』:p167)
図:ロラン・バルト:『表徴の帝国』:p53
浅草寺における子宮的構造について
人類の抱いた最初の哲学的謎は「子供はどこからやってくるのか」という質問なのであった。すると女性の股間の洞窟は「無」への入り口なのであるから、それを人目にさらして、子供はここからやってきましたと言うことは、「無」を裏切ってしまうことになる。(中沢新一:『アースダイバー
』:p195-196)
浅草寺のご本尊である観音様は、ご開帳されたことのない絶対の秘仏であり 「無」である。地元の方々は見たら目が潰れると教えられているので本当に誰も見たことがない――しかしこれが浅草の象徴である――。
それを私はありがたく日々拝んでいるわけなのだが、中沢新一は、そのこと(見えない観音様)こそが、見えそうで見えない古いタイプのストリップには絶好の環境を浅草という街がつくりだしていた理由なのだと云う(浅草は一昔前ストリップのメッカだったのはご存知のとおり)。
その信憑性はさて置き、浅草寺のように人を集める続けているシステムには、「無」としての象徴を持った構造があり、それは女性性の象徴、メタファーであって、それを(私は)子宮的構造と呼んでいる。
雷門
三砂ちづるの『オニババ化する女たち』の見方を借りれば、雷門は女性の股間の洞窟(つまり「無」)への入り口であり、立派なクリトリスまでついている(それは「雷門」と書かれたちょうちんであってもいいし、「金龍山」と書かれた板でもよいが、三砂先生によれば、それらは飾りものにしか過ぎない)。
仲見世
銀座線浅草駅を降りた参拝客は、あたかも精子のようであり、われ早くとこの門をくぐり、仲見世へ向かう。
雷門から宝蔵門へ続く通りが「仲見世」であるが、これは参道であり、つまりは産道なのだ。
ここを通って参拝客(精子)は、見えない観音様(卵子)がおさまっている浅草寺本堂(子宮)へ向かう。
本堂
そして本堂へとたどり着き参拝をするのであるが、先に書いたように、このご本尊様は、だれも見たことのない絶対の秘仏であり 「無」であるために、精子は卵子と結ばれることなく受精に失敗するのである。
それは仮想的な死を意味していて、つまり世俗を背負った参拝者は、ここで古い〈私〉の仮想的な死を体験する(タナトス)。
しかしそれはまた新しい〈私〉の誕生であって、〈私〉は一旦死んでまた生き返り、仲見世(参道)を通り雷門からまたこの世へ誕生する(エロス)。
つまり子宮的構造とは、エロスとタナトスの構造なのであって、中心に向かって進むことによって、〈私〉が(仮想的に)死んで生まれ変われる構造である。
そこで己を発見する一つの完全な場所
これは日本人に限らず、そして宗教的なものに限らず、人類の無意識に備わった基本構造なのだと考えている。
四角形の網状の都市(たとえばロスアンジェルス)は、深い不快感を生むといわれている。こういう都市は、わたしたちのなかにある都市についての一つの曼荼羅感覚、つまりそこへ行き、そこから帰ってくる一つの中心、そこを夢み、そこへおもむきそこから取ってかえす、一口にそこで己を発見する一つの完全な場所をいっさいの都市空間が内部に持っているとする感情、これを傷つけるのである。(ロラン・バルト:『表徴の帝国』:p52)
迷宮
そしてこの構造は「迷宮」の構造なのである。
本来の迷宮は中心への唯一のルートを示す。
(図:ピーター・モービル:『アンビエント・ファインダビリティ』:p22)
(編集中)