午前7時起床。浅草は雨。

福島県の談合問題は、佐藤栄佐久前知事が収賄容疑で逮捕されるにいたって、知事の汚職事件になってしまった。

建設業者との癒着を問われ、転落した、佐藤栄佐久容疑者(67)。49歳で初当選した際には、大手ゼネコンなどの支援を受けず、清廉さが売り物だった。佐藤容疑者は、対外的には「学者肌で穏やか」との人物評で知られるが、実弟や秘書ら身内に対しては、「絶対君主」として振る舞い続けた。東大を卒業後、63年に家業の紳士服メーカー「郡山三東スーツ」に入社。青年会議所活動などを経て83年、参院議員に初当選した。 88年に知事へ転身。関係者によると、出馬に当たり、有力支援者に「3期で引退する」と約束。しかし、当選を重ねるにつれ、面と向かって意見できる人がいないほどの存在に。04年9月には、全国最多の5選を果たした。  性格は「とにかく頑固。怒り出したら手をつけられない」(知人)とされる。地元建設会社社長は「人前で、身内を平気で怒鳴りつけていた」と話す。( 引用:フジサンケイ ビジネスアイ 2006/10/24)

しかし今の日本において絶対君主なんてありえないのであって、これはジジェクの云う『裸の王様』ならぬ『裸の知事』なのである。


佐藤県政はだれもが佐藤前知事の空虚さを知っているから成立する。

つまり県民は皆、王様(知事)が裸であることなど知っていたのである。知っているからこそ、その王権は維持されてきたのであって、つまり『裸の知事』は県民がつくりだしたものでしかない。(そしてそこに、地検と云う少年が中景(種=福島県)の外延からやってきて、知事は裸だと云い始めてしまったわけだ。)

それは、知事という機能(器官)が、ぶれない軸としての大衆(県民・遺伝子)の延長された表現型でしかないと云うことでもあって、その意味で佐藤前知事は、ぶれない軸としての大衆(県民=身体全体)の一部であった。

しかしそれは悪でもあり善でもあり――善でもあり悪でもある人間の作り出した象徴なのである――、例えばそれが盲腸のようなものであるとしたら、盲腸を切り取ったところで、種としての遺伝子たちは今日も元気なのである。そしてまた新しい表現型をつくりだそうとするだろう。流石に今度はちょっと不自由が多いのだけれどもね。(笑)

追記:

北海道のA木さまより

これで、ますます「多選批判」や「多選禁止」の声が高まりそうですね。

とのコメントをいただいた。私は基本的には多選には反対の立場であり、それは「多選(町長選挙)」でも書いたように、多選は種(自治体)がひねりのない円環と化してしまい、個が種に溶けてしまうと考えているからだ。(どんなものでも長期化すれば慣れてしまい日常化してしまう)。

それはじつはESS(進化的な最適化)なのかも知れないけれども、強力な対立候補のいない首長を持った行政(自治体)は、内的な牽制装置が効かないことで腐敗しやすいのだと思う。(岐阜県や福島県の例)

知事は云わば大統領(以上)のようなものであり、その機能に集中する権力も責任も大きい。米国の大統領が憲法によって三選が禁止されていることは参考にしていいと思う。