昨日、恩田守雄先生の「公-共-私」概念を書いていて、私的に再確認が必要だなと思ったことは「個」の概念であった。
ライプニッツ的個
「いくらかの小さい開口部のある共同の部屋:五感
バロックの館
(グレゴリー)(ジル・ドゥールーズ:『襞―ライプニッツ』:p11)
私は「個」のあり方を、ライプニッツ的「個」(モナド)つまり田邉元の「種の論理」における「個」の概念を「理念モデル」のようにして考えている。
なぜ「理念モデル」なのかとえば、モナドとしての「個」とは完備概念 complete notion であって、今やそんな人間(個)などいないからだ。
完備概念としての個
完備概念としての「個」はまさに単子(モナド)ある。
単子(モナド)と同じように、そのような個体にはいわば「窓がない」。異なる個体同士を包摂して、そこにコミュニケーションを実現してくれるような、一切の安易な回路はそこにははじめから存在してはいない。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p321)
ここでいう「安易な回路」とは想像界を回路とするコミュニケーション欲求のことだ。
想像界とは、そのような個体をつねに不完備の状態にとどめおく働きをするものなのである。この不完備からは欠如が生まれる。そして、この欠如が同じように不完備な個体同士間のコミュニケーションを発生させる。田邉的・ライプニッツ的個体には、そのような想像界がまったくない。だから、個体同士間に想像界を回路とよするコミュニケーションの欲求も生まれない。これは言い方を変えれば、肉親とくに親子の間に形成される情愛のようなものが(親子とくに母子間に生まれる愛情とは、そのようなコミュニケーションへの欲求のストレートな表現にほかならない)、完備概念としての個体と個体の間では発生のしようがない、と言っているのと同じことである。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p318)
つまりモナドには想像界がない。想像界がなければ(ラカンのいう)ボロメオの結び目も存在しない。そしてそのような個が作り出す社会には(ボロメオの結び目的な)「共」も「贈与」もない。それはまるで恩田先生の示した近代モデルではないか――だからこそ今という時代に「種の論理」は意味をもつのであり、ライプニッツの再評価はおきる――。
種の論理
しかしバロックの館は二階建てであり、田邉元の「個」は、「類‐種‐個」というトポロジーとしての構造を持っている。それを(今の時代に即して、そして理念として)図示すれば、下左図のようになる(のだと私は解釈している)。この理解からの派生的な思考はとても面白いのだけれども、今回はこれを下右図の「公‐共‐私」のトポロジーと対比させてみてほしい。すると奇妙なことに気付かれるかと思う。
それは「個」と「共」の位置関係である。「種の論理」における、つまりライプニッツ・田邊的「個」とは、恩田先生の示したトポロジーでは「共」(共同体性)なのである。しかし「種の論理」においては「個」は想像界を経由しない。つまりその共同体的結びつきは「安易な回路」を経由しない。「共」の理論では結びつかない。「共」の理論は想像界を回路にしたつながりをその基体にしている。
剥きだしの魂
なのでモナドとしての〈個〉がつくる「共同体」とは「剥きだしの魂」(田邉元)による結びつきでしかなくなるだろう。その接点は親子の情愛とは異質な、隣人愛とでも呼べるような「愛」であり、それが織り成す共同体は「愛の共同体」である。しかしそれは「理念モデル」だと私は割り切っている。確かにそれは完備概念としての「個」の共同体なのだろうし、そんな「個」に私もなりたいと思う(でも、なれやしない)。
象徴の貧困
つまり個人が想像界的接続に頼らないライプニツ的「個」であるためには、前提としての種的基体(象徴界―それは「種」(パトリ)であって「類」(国家)ではない――が必要なのである。完備概念の「個」とは、象徴界の存在を前提とした「個」ともいえるだろう。しかし今という時代の問題はなによりも象徴界の喪失なのである。
象徴界つまり種的基体(パトリであり、中景であり、バロックの館の1階部分である)が、「私の理論」(経済と市場の理論、自由と効率の理論)にとって変わられてしまうことで(近代化の運動だね)、「個」つまり「共」は、モナドでもないただの粒として資本の運動の中に浮遊している。
不完全なモナド
近代化の運動は、全体としての人間から、非科学的なもの、非身体的なもの、非貨幣価値的なもの(そこには魂も含まれる)を剥ぎ取ってしまうことで、丸裸の粒のような人間を生み出そうとしてきた。その粒はモナドなのかもしれないが、しかし人間のココロの進化はそれには追いつかない(というか、そういう構造にはなっていないのだろう)。人間はただの粒にもなれやしない。私たちは今や想像界をまとった――象徴の貧困な不完全なモナドなのである。
なので、今や私たちを結び付けているのは象徴界なき「安易な回路」(想像界)でしかない。インターネットはそういう「安易な回路」(想像界)的つながりに満ちている(のだと思う)。つまりそれが「贈与としてのインターネット」の一面(全部ではない)なのだと(私は)理解している。そしてこれがスティグレールのいう「象徴の貧困」なのだろう――彼はそれを国家単位で考えているようにもみえるが――。(編集中)