建児の会のブログから

人吉球磨広域行政、幹部職員ら逮捕へ 入札妨害の疑い

これまでの調べでは、幹部職員らは二〇〇四(平成十六)年七月、同センターの整備計画書作成などの業務委託の指名競争入札で、広島市の業者が確実に落札できるよう事前に最低制限価格を業者側に漏らし、業者側は入札額を同価格ぎりぎりに設定して落札するなど事前に調整した疑いが持たれている。

東京に住む私が普段目にしないところでも、入札妨害に対する摘発は行われていることを痛感させられる記事だ。ただこれは2004年のことだし、金額規模も小さい事件なので、なにか他の狙いがあるのかもしれないが。


魔女狩り

入札妨害に対する摘発は、それはまるで魔女狩りのようだと先に書いた

今この国で起きていることは、魔女狩りの様相を帯びてきたように思う。それはもしかしたら贈与(的共同体性)というシステムの消滅を狙っているのかもしれないが、贈与の原理そのものは、人類のESS(進化的に安定的な戦略)であるがゆえに(つまり無意識的なものだ)、たぶんなくなりはしないだろう。

ただ、贈与の原理がおびえきって機能しない社会をつくってみたところで、三位一体(ボロメオの結び目)はその均衡を失うだけでしかない。つまり全体としての経済はなりたたない。(「北海道深川市長が逮捕されたこと、もしくは贈与の対象を置き換えること。」。

ムラ社会の破壊

全体としての経済ムラ社会的な贈与のシステムを今、徹底的に排除しようとしている力が、なにものであるかは気づいている。

そしてそれを世間(今はそれは象徴界に居る)が後押ししているもたしかだろう。

そしてわれわれに必要なのは、贈与の対象を交換から純粋贈与へと変えるパラダイムシフトでしかないことにも気づいている――それは純粋贈与を純粋贈与として機能させることと同義である。

普遍経済学

つまり今という時代は、商品の生まれ方――商売の仕方が違うのだ。

今という時代の商品は、贈与と純粋贈与との交わりに生じた純生産が、交換と交わることで転じたものでしかないだろう――それはGoogleや農業で考えるとわかりやすい――「Googleの三位一体モデルと農業の三位一体モデル。

つまり贈与の対象として純粋贈与を見極めなければならない。

つまりわれわれが贈与の対象として、純粋贈与の地位に置くべきものは、今はなんなのだろう。

そのひとつが地域社会(顧客)であることはたしかだろうが――では、そうであれば、われわれは今、なにをなすべきかを、改めて考え直さなくてはならないだろう。