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初心者のための「文学」。(大塚英志)

午前7時起床。浅草は晴れ。

初心者のための「文学」(大塚英志)

初心者のための「文学」

大塚英志(著)
2006年6月30日
角川書店
1200円+税


文学

文学というようなものは、殆ど読んだことがなかった。若い頃はとにかく活字が嫌いだった。読むものといえば雑誌ばかりで、そこから断片的に情報をつまみ食いするための道具としてしか、活字を扱ってこなかった。それが40年近くも続いたのだから、私の馬鹿は、その頃に決定的になったようなものだろう。

けれども、自分でテクストを書くようになると――その多くはWebLogとしてだけれども――、文学を含めた、〈他者〉の書いたテクスト(本)も少しは読むようになった。だからと言って、なにかよいことがあったのかと言えば、それはわからない。ただそれは〈他者〉の頭を借りて考えているようなものだと感じている。

コギト

さらには、本を読むときにも、コギト的にもう一人の〈私〉がいるのを感じるようにはなった――つまり、もう一人の〈私〉は、〈他者〉の頭を借りて考えている〈私〉を見ている。たぶんそれは、書く事(反省)から生まれたものだろうが、それが読む事でも機能している。というようなことは、この本の内容とは関係はない。(笑)

日本人の〈私〉

この本は、「なぜ私のブログでは、「(私は)思う」と私を()の中に入れてしまっているのか、ということ。」である――つまり日本人の〈私〉について、文学を通して考察している良書だと(私は)思う。

戦時下のわくわく

しかしそれよりも、私が興味をひかれたのは、三島由紀夫や太宰治が戦争を「わくわくした時代」として描いたことについての言及であって――大塚は今の日本は戦時下だというのだが――、なぜなら、戦時下にわくわくする気持ちについては、どこかで読んだ記憶があったからだ。

疎外と連帯

それをなかなか思い出せないでいたのだが、ようやく思い出した。それは、セバスティアン・デ・グラツィア(デ・グレージア)の『疎外と連帯―宗教的政治的信念体系』(絶版)という本の「戦争と単純アノミー」という章だ。

前大戦中、イギリスの精神病医たちは、英本土の諸都市のように猛爆にさらされた地区でも、銃後の人たちがトコトンまで戦争をやり抜く構えをくずさなかかったのをみて、首をヒネらざるを得なかった。親たち自らよく窮乏生活を耐え忍んだので、子供たちの間にさえ、なんら憂慮すべき心理学的悪影響がみられなかった。精神病医たちは精神神経症患者が大量に発生するものとみていたが、実際には少数の患者が出ただけであった。が、戦争終結を機として、彼らは除々に自信をとり戻していった。突如として予測されていた事態が起こり出したからである。戦争に明け暮れた幾歳月かの間中、緊密に相調和しながら暮らしてきた人たちは、お互いにとげとげしくなった。飲屋での喧嘩口論や犯罪者の拘引件数も驚くべき上昇率で急増した。至るところで、人は病的兆候を示すようになった。精神病診療所はとても戦時中の収容力程度では間に合わないくらいの繁盈ぶりを示した。そればかりではなく、外見上器官系統の病気とみられるものだけで扱ってきた、他の診療所や医者たちも、予想もしなかった患者の急増に音をあげる始末であった。戦争は終ったのである。(デ・グラツィア:p284)

もし単純アノミーが存在するとしたら、戦争が起こるかもしれないといった予想から、アノミーの状態から脱却する明るい見通しが生ずるのである。現実の戦争の紛糾に巻き込まれると、人はかねて戦争の明るい面と予想していたものが事実上証明されるのを知ろう。このことは非戦闘員の場合についてとくにそう言える。(デ・グラツィア:p285)

アノミー

じつは戦争は(ある意味)楽しいのかもしれない――とくに非戦闘員にとっては――、という問題提起は、アノミーが蔓延するような今という時代に、なぜネットは右翼化するのかを考えるにも、いい材料かもしれないな、と(私は)思った。

そしてそれは、なぜインターネットは、贈与共同体的(母系的、もしくは臍の緒の接続先)に存在するのかを考える材料にもなるだろうと思う。が、このことについては、後で(ぼちぼちと)書こうと思う。

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街的という野蛮人。

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読書メモ『初心者のための「文学」』

最近読んだ本。 大塚英志『初心者のための「文学」』 続きを読む

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