悪党的

中沢新一の、見開き2ページの連載を読むため(だけ)に「ダカーポ」2007・03・07を購入。連載第2回目のお題は「悪党的思考の運用」である。"悪党的"という語彙は、私のブログでは日常的に使われているものだ。

その意味するところも含めて、今回の中沢新一のテクストを読んでいただければ、建設業のIT化を考えてきた私が、なぜ中沢新一という宗教学者(というか今は人類学者らしい)をリスペクトするようになったのかが、(たぶん)わかっていただけるのではないかと思う。


談合というのは善し悪しだと思う

例えばこんな引用はいかがだろう。

テクノロジーが発達した都市社会では、複雑なプロセスを排除しようとします。一方、日本の社会において、ながらく芸術を担ってきたのは、職人と芸人でしたが、とりわけ芸能をおこなう人々は、人間というものが抱えている矛盾も理解し、デリケートなコミュニケーションに長けた人たちでした。宮崎県の東国原英夫(そのまんま東)知事が、知事選に立候補したとき、「談合というのは善し悪しだと思う」とコメントして、案の定、マスコミから叩かれました。本人もあとから認識不足だったと反省していましたが、「税金を使う官製談合は悪だが、一般の談合がすべてなくなってしまうと中小零細企業には大きな打撃となる」「社会には必要悪もある」と語った、この発言の背後にある、彼が芸能者として理解しているものをよく考えもせず安易に切り捨ててしまうべきではないと思います。(p71)

悪は自然ときわめて近い

こんなのもある。

もちろん、いまの大手ゼネコンが支配する制度化された談合はよくない。けれども、はじまりを考えれば、弱い者同士が生き延びていくための方便として、圧倒的な勝者を出さないかわりに敗者もつくらないという庶民の知恵が、そこには働いていたように思います。正攻法だけでは、ものごとはうまく運びません。ただその場合、なぜその必要悪は必要なのか、「悪」を運用する人間は、その意味を理解していなければいけない。ほんらい「悪」は、「自然」ときわめて近いところにあり、中世では、自然の力に直接触れている人のことを「悪党」と呼んだのでした。 (p71)

たぶん、今の世の中で、このようなアプローチで談合を語るのは、このブログと中沢新一のこのテクストぐらいしかないだろう。(笑)