ちくま2007/3聯関

意外なところで宮台真司のテクストを見つけた。

『ちくま』の2007年3月号である。(全文はちくまのサイトでも読める)。

それは思いのほか読みやすいものだが、ひとつだけわからない語句があった。それは「協働聯関論」の「聯関」である。なので調べてみた。

れんかん ―くわん 0 【連関/聯関】
(名)スル
(1)つながりがあること。かかわりあいがあること。関連。
「互いに―した問題」
(2)「連鎖(3)」に同じ。
三省堂提供「大辞林 第二版」より凡例はこちら

あとは宮台の説明を読めば文脈からの理解は可能だろう。


自己言及の思考

今日、廣松は忘れられた。19世紀的「潜在性の思考」に留まり、20世紀的「自己言及の思考」に背を向けたからだ。潜在性の思考は、目に見えるものが目に見えないものに規定されるとする発想。無意識論や下部構造論が代表的だ。自己言及の思考は、潜在性を否定、互いに参照し前提しあう循環として社会を記述する。言語ゲーム論やシステム論だ。言語ゲーム理論への評価を尋ねたら「それを言っちゃおしまいよ」と仰った。「それ」とは、全ては言語ゲームだという言明のこと。真理性の要求ができなくなることを恐れたのだ。だが今日残ったのは、自己言及的に閉じた循環の指摘によって、普遍妥当性要求を、前提に満ちた特殊な営みへと部分化する類の議論ばかり。(宮台真司:「古さと新しさ」:『ちくま』2007年3月号:p25)

これは廣松渉への言及だが、私は廣松渉を知らない。なので廣松へ言及しているところはよくわからない。ただ、19世紀的「潜在性の思考」と、20世紀的「自己言及の思考」は少しは理解できているつもりでいる。なぜなら私自身が「自己言及の思考」にあろうと務めてきたからだ。

カルト化から逃げること

だが複雑化した社会では真理性の要求の文脈依存性が高まり、真理性を要求するとカルト化する。これを踏まえ、真理の言葉の階梯でなく、機能の言葉の網の目を通じて全体性を企図するのがシステム論だ。(宮台:p25)

複雑な社会はカルトを作り出そうとする要求が大きい。それは私のようなものでもその対象となりえることを実感として感じてきた。その要求を真に受ける方も多いが、私はカルト化なんて真っ平御免なのである。そしてそうならないように、自己言及することに努めた。

手前味噌な自己言及

価値観には根拠はなく、実践によって一般化すれば後から妥当だったことになる。自分の振舞いは正しいと言い、正しさを振舞いによって現実化する。そこに手前味噌な自己言及がある。(宮台:p25)

しかしその自己言及も手前味噌であることは否定しない。というか、どうやっても手前味噌にしかならないのである。(笑)

宮台は廣松を『この自己言及を、前述した「協働聯関と構成的認識との循環図式」によって正当化した。廣松は、振舞いにおいて新しくあるべく、叙述において古かったと言えよう。』とうのだが、「自己言及」は多かれ少なかれそんなものだと(私は)思っている。宮台さえその指摘から逃れているわけではないだろう。