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中沢新一(著) |
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中沢新一(著) |
才能のあるウソつき
中沢新一という人は、じつに才能のあるウソつきである。天才といっていい見事なウソのつきっぷりにはほとほと関心させられた。/…中沢自身、「踊る農業、踊る東北」という森繁哉との対談の中で、繰り返し自分のウソのつきかたについて語っている。/〈みんな嘘をつく、だって嘘というものが存在の様式なんだもの〉/〈自慢じゃないけど、ぼくは嘘つきだからね〉/〈歴史なんてものはみんな嘘なんじゃないかなあ〉/などと言いつつ、彼はこう自分のウソに魔術師のルールをつけ加える。/〈ただそれは、だますこととはちがうんだ〉/つまり批評家・思想家のウソはウソのためのウソであり、ひとつの存在様式、または美学なんだよ、と釘をさすのだ。たしかにそうだろう。中沢の文章を読むとき、ぼくたちが一種の酔いをおぼえるのは、そのウソの手ごたえある存在感に酔わされるからだ。(五木寛之:『百の旅 千の旅』:p25-27)
中沢新一は、吐き出されたそのテクストを、テクストとして読むことが、その行為自体が、(最近の私には)楽しい。それはたぶん、五木寛之が指摘しているように、彼が才能のあるウソつきで、彼のテクストが多分に物語的だからだろう。
私はその魔術的なテクストに酔いを感じるファンのひとりだが、その酔いの正体は(たぶん)ズレなのだと思う。中沢新一の魔術は(私が)普段気付かないモノをあらわにしてくれる快楽のようなもので、ボーっとした日常に、二項対立を作り出し、その境界に浮かび上がるものをあらわにしてくれるのだが、何が楽しいって、その二項が尋常ではないことだ。(つまりそのことで彼は 「じつに才能のあるウソつき」なのである)。
それは基本的には〈日常/非日常〉もしくは〈常識/非常識〉であり、普段ボーっとしているときにはこの二項は中心を重ねあった同心円であることで、ひとつのものにしかみえない、というか、単純な二項対立の円環(〈内/外〉の繰り返し)の中に収まってしまう。
ところが、彼のテクストは、私の日常は他者の日常なのか、とか、私の常識は他者の常識なのか、と問いを投げかけてくるものだから(それも古い地層の底から)、それを考えた途端、その同心円は互いに中心をずらしはじめ、その重なり合い(境界)に、今まで見えなかったモノがあらわになる。その快楽の追体験が、私たちに酔いを与えているのだろう。
平面と遠近法でものを考えること
はやめる必要がある。ここではふ たつの円、ふたつの渦巻き、ふた つの球があると考えよう。このふ たつの球は、わたしが素朴に生き ている間は同心の球だが、わたし が自分に問いを投げ掛けると、互 いにわずかに中心をずらせるので ある。(『メルロ=ポンティ・コレクション 』:P130 :「絡み合いーキアスム」)
ミクロコスモス
中沢新一の『ミクロコスモス I』と『ミクロコスモス II』は、中沢
それは小さな作品の寄せ集めであり、読み始めるのに覚悟はいらない。最初から読む必要もなく、気になるタイトルから読みはじめればよい。小品であるが故に、限られた紙面に収められたそのテクストの凝縮感が心地よい。そしてそれぞれに、常識にズレを作り出しながら、普段はなかなか見えない(気づかない)モノを、私たちに向かってあらわにしてくれている。
Comments [3]
No.1やまさん
ウソ=創作で、人間の本当の姿を描き出す方法だとしたら、「無人島のミミ」みたいに小説でよいのであって、あえて中沢氏が人類学者という学問の立場にあることには、どんな意図があるのかと考えてしまいました。
ズレから見えなかったモノが見えると表現されているのは、互いに表面的に異質にみえるもの(核と芸術とか)の、その発想が同根であることを示されるのとは、ちょっと違うことですか?
No.2momoさん
>やまさん
いつもありがとうございます。
中沢新一がアカデミズムの人であることが、どういう意味を持つのかはよくわからないのです。学の人としての彼の仕事にふれる機会がないのがその大きな理由でしょうか。
「人類学者」という肩書きは、今の中沢新一にはお似合いだと思いますし、レヴィ=ストロースがそう呼ばれることが多いことを考えれば、本人もまんざらではないのではないでしょうか。(まあ、これも本人じゃないのでわからないのですが)。
ただ、私が初めてふれた中沢新一である『フィロソフィ・ヤポニカ』では、(彼は)宗教学者・思想家となっています。『カイエソバージュシリーズ』や『精霊の王』も同様で、2005年の『アースダイバー』では思想家・哲学者になりますが『モヒカン靴のシンデレラ』や2006年の『芸術人類学』ではその肩書きは消えて多摩美の教授です。「人類学者」と明確に記載されているのは『三位一体モデル』から(つまり今年になってから)ではないでしょかね。こんな短い間でも彼への名指しはころころと変わるのですね。
肩書きは、例えば「人類学者」で〈ある/ない〉の二項対立をつくりだしましすが、中沢新一はそこにもう一項加えて(それは中沢新一が存在することのもっと根源的なものだろう、というだけでよくはわからないのですが)、とらえどころのなさ――定義しようとすると、するっと逃げてしまう感覚――を作り出しているように思えます。
それは彼一流の一貫したやり方であって、『ミクロコスモスⅡ』の冒頭には「369(小説)」という(表題通り)小説がありますが、369の意味は、そんな彼のやり方(2+1:二項対立+無の構造=神話思考)の軽い解説のようになっていると感じました。と同時に、この作品(小説)が、他の作品と並べれられていても違和感がないのが面白いと思います。
今回の小品集を読むと、全ての作品は、中沢新一の考える「ある目標」(思考のテーマ)への導線(物語)であろうとしているように思えます。(まあ、当然と言えば当然なのですが)。それが「物語」の意味です。
それは二項対立で白黒つけることではなく、矛盾を矛盾のまま受け入れてしまうような「野生の思考」とでも呼べるものを加えることで表出してくるもので――そうであることで、(我々にもある)「野生の思考」の存在をあらわにしようとしているのだと思います。
つまり。中沢新一の書いたテクストを読むことで、(私は)二項対立で白黒つけることに慣れた意識に「ズレ」が生じてくるのを感じますが――そのズレは先に書いた方法によって作り出されているのでしょう――、そのズレから見えるものとは、その矛盾を矛盾として受け入れることで感じることが可能となるもです。
それは「互いに表面的に異質にみえるもの(核と芸術とか)の、その発想が同根であること」でもありますね。
うまく表現できなくてすみません。
No.3やまさん
「369(小説)」今日、電車で読みました。
80年代にネパールやバリでの体験をもとにして書かれた、いくつかの文章と同じスタイルだと感じました。
最近の講演やシンポジウムで、中沢氏が自らを「人類学者だから」と前置きされることが何回かあって、実はとても気になっていたので、お考えを興味深く拝読しました。
「好きは嫌いで、嫌いは好き」は真実で、悩むなら読まなきゃいいのに、やめられません。