人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか

人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか

水野和夫(著)
日本経済新聞出版社
2007年3月14日
2200円+税


開発主義の終焉

水野氏は1995年で戦後は終わったという。 これにはまったく同感なのである。

一九九五年で戦後は終わった。この年を境に戦後の常識が、経済だけでなく、政治や社会や文化やあらゆる分野で通用しなくなったといえる。日本の戦後は近代化を最も凝縮したかたちで進行したから、近代が終わったと言い換えてもおかしくない。(p:13)

つまりそれは、開発主義の終焉ということに他ならない。私がそのこと(1995年からの変化)に気付いたは約10年前のことであり、その最初の変化は、インターネットに出会い感じたことだ。(私が講演で使う「10年」のことである)。

参考(開発主義)

参考(開発主義を破壊するもの)

GC空間――コミュニティ・ソリューションはあるのか

そして(私は)それを「GC空間の4象限」(金子郁容)に要約して考えてきた。

GC空間の4象限
by 金子郁容

私の問題意識

そこでの私の問題意識は次のようなものであった。

つまり、このままグローバル化が進み、我々がその種的基体としてきた地域社会(種・パトリ・第4象限)の崩壊が進めば、

  • 第4象限の崩壊とともに、その象限を基体とした ドメスティックな産業である地場の中小建設業は衰退することになるだろう。
  • かといって、我々は第1象限や第3象限のような、グローバル経済圏で活躍することは難しいだろう。
  • では唯一非グローバルな経済圏で、生き延びることが可能な第2象限――ココミュニティ志向――とは、我々(公共事業という産業)にとって何を意味するのだろうか。

ということに要約される。

参考(第4象限)

種化した類

水野氏は今世界を席巻しているグローバル経済の特色を、「帝国化」と「二極化」という「ものさし」でとらえるのだが、この考え方は「種の論理」でいえば、本来〈類〉であるはずの国家が〈種〉的に動いている――つまり「種化した類」ということだ、と私は理解した。

「種化した類」基体 を喪失したもろもろの「個」とからなるこのような世界では、国家のめざすべき平等化の理想も、じっさいには空洞化していくことになるだろう。不平等はさまざまな領域でのテリトリー占有をめざす「種」の構造から生み出され、それを否定する「個」によって、脱テリトリー化の実践が行為されるときに、はじめてその中から平等をめざす「類」が発生してくる。ところが「種的類」によってグローバル・スタンダードかされた世界では、平等は食うよな欺瞞に陥り、じっさいには不平等が惑星の全面に広がっていくようになるだろう。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p161-162)

帝国化

帝国化は主権国家がグローバリゼーションによりかつての機能を失い、国境を越えた企業集団や経済統合が進んでいることだ。

つまりそれは国内での均質的な成長を目指した国民国家と資本主義の幸せな結婚の破綻を意味する。そのことで国民国家を前提とした経済政策はうまく機能しなくなる――その意味で公共投資を中心とした開発主義もその開発主義の申し子である公共事業という産業も拠って立つ地面を失う。

二極化

そしてあらゆるところで二極化は進展する。国内経済の場合、グローバルな市場で活躍する企業と個人はその恩恵を受ける(勝ち組)が、国内にしか市場を持たないドメスティックな産業は疲弊する(負け組)。

それはまさにそのとおりであって、ドメスティックな産業である公共事業という産業(ばかりでなくドメスティックな国内の産業は全て)と個人は負け組となった。(それは10年前に私の危惧したこと、『桃論』での指摘が実現したことでもあるが、そんなことは少しもうれしくはない)。

帝国化と二極化

思想的にいえばそれは思考停止のことだ

つまり帝国化と二極化というのは、極端な二項対立なのである。何故そうなるかというと、その二項を判断する「自分がない」からだ。

判断する(思考する―考える)自分があるのであれば、二項は必ず三項となり、自分という直線を1本加えれば象限は必ず4象限になる。

(何の説明もなく書く!「純粋贈与は私の内にある」)。

しかし今の時代の個は、個人主義とはいうけれども、思考停止した個ばかりなのである。思考停止した個が蔓延することで帝国化と二極化は進展する。(だからこそ私は、公共事業という産業にあえて「考えるIT化}を提言したのだが……)。

ではどうするのか

ではこれでいいのか、なのである。もし、このままではいけない、と考えるなら、ではどうするのか、なのである。水野氏はこういう。

格差を広げるのではなく縮小させ、流通業の生産性革命を起こし、毎日を楽しむよりも将来に期待がもてるような社会にする――。日本にとっての真の構造改革は、これからスタートである。

今最も認識しなければならないのは、ドン・キホーテがいった「事実は真実の敵である」ということであり。十六世紀依頼の事実(インフレ〈成長が全ての怪我を治す)は、二一世紀の真実(デフレの世紀)にとって妨げになるのである。あるいは、格差という事実が堆積し、公平、平等という理想が埋もれてしまうのである。(p297)

けれど、事実ばかりが堆積し、理念や理想が埋もれていくなかで、「われわれ」の取れる戦略なんてたいしたことはなくて、せいぜい「とりあえずはこの巨大な動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保っていくこと」ぐらいだろう。

それはつまり、あたし的には「理念と目的をもって情報を発信すること!」に収斂していまうのだけれども、その気力は貴方には残っているのだろうか――まあ気力がなくとも生きていける世の中であることもまたたしかで……それは時給850円なのだけれども。