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参院選総括報告書、自民が異例の首相批判・「国民の目線で」を批判する。

午前4時30分起床。浅草は雨上がりのくもり。

参院選総括報告書、自民が異例の首相批判・「国民の目線で」(NIKKEI NET)

自民党は24日昼、歴史的惨敗に終わった参院選を総括する報告書を決定した。敗因として年金記録漏れ問題などに加え、安倍晋三首相の「国民の側でなく、永田町の政治家の側に立っているイメージを持たれた」政治姿勢を指摘。今後の課題として「国民の目線に沿った政権運営が求められる」と明記するなど異例とも言える首相に批判的な内容だ。/報告書は参院選総括委員会(委員長・谷津義男選挙対策総局長)が作成。同日の役員会と総務会で了承した。/敗因に関して当初は(1)年金記録漏れ(2)不明朗な事務所費など「政治とカネ」の問題(3)閣僚の失言など不祥事――の「逆風三点セット」とする方向だった。(14:00)


ぶれない軸としての大衆

自民党は、「逆風三点セット」だけではなく、「国民の目線に沿った政権運営が求められる」のに、その要望に応えられなかった、という。安倍さんは「国民の側でなく、永田町の政治家の側に立っているイメージ」なのだそうだが、私はこの認識はちょっと違うのじゃないか、と思う。

このブログでは、「国民の目線」のことを、「ぶれない軸としての大衆」と表記しているが(例えば、「参院選、政治バブルの終焉」とは、宋文洲はうまいことをいうものだ。若しくは、「ぶれない軸としての大衆」について。)、じつはこれはある軸を中心にしてぶれまくるのである。

大衆の反逆

それはいってみれば、オルテガ・イ・ガセットのいう『大衆の反逆』のようなもので、官僚が主導する「民主主義」の進展がもたらす「民主主義の大衆化=官僚制の否定」というパラドックスである。

つまり大衆の意のままにならないものは、今や官僚ぐらいしかない。それに大衆はいらだっている。(政治家は、選挙で落とせるが、官僚は、直接的に大衆の手の出せないところにいる)。

小泉的なもの

自民党が大敗した今、小泉さん的なものを懐かしむ声も多い。しかし小泉さんは、「国民の目線」を、小さな政府=官僚批判を利用し、イデオロギー的に、新自由主義に誘導しただけだろう。、国民がそれ(新自由主義的な政策)を望んでいたのか、といえば(私は)否だと思う。

ただ、「政治」の「経済」への侵食、そこから発生する経済的非効率性、官僚制の硬直化は、だれがどうみても、市場主義者の言っていることの方が説得力があった。そしてそこに長引く不況と〈私〉の生活の困難があった。

小泉さんは、そこに渦巻く国民の不満を、官僚(というか公務員)に対する嫉妬心として利用したのである。

それには、新自由主義という教義(イデオロギー)はうってつけであった。反政府、反官僚には、右も左も飛びついた。

しかしそれが、〈社会主義=官僚制/資本主義=市場主義〉のような、極端な二分コードとして成立してしまったことで、この国の「国民の目線」には、官僚批判=市場主義という選択肢しか映らなくなってしまった。

本来、資本主義体制内にある社会主義的なものへの批判と、体制としての社会主義批判は、まったく違うものであるにもかかわらず、小泉さんは、この区分をごちゃごちゃにしてしまったわけだ。

そのことで、大衆に市場主義は万能であるかのような期待を持たせた、と同時に、「官僚批判」(そして官僚が関与する開発主義的なものへの批判)を、大衆の選択の「ぶれない軸」としてつくりあげることに成功しまったのである。(郵政民営化は官僚批判、公務員批判でしかない)。

しかし新自由主義のようなイデオロギー(教義)的なものへの熱狂は、それは熱病(つまりバブル)のようなものなので、やがて冷める(たぶんもう冷めただろう)。しかし、人間の嫉妬心だけはどうしようもないのである。(嫉妬心は、自分でもコントロールできないので厄介なのだ)。

なので、「国民の目線」は未だに「官僚批判」を軸に行ったり来たりしている。(つまり「官僚批判」、「公務員批判jだけはぶれないのである)。

国民は勝手なのである

しかし市場原理を選択したぶれない軸としての大衆も、いざ自分の生活に危機がせまれば、またぶれる。(ぶれを戻す)。

ただ宗さんがいうように、政治は国民の生活を守ってナンボなのであり、自分の生活を脅かすものには、国民は無意識的(脊髄反射的)に反応する、と考えている――それを「ぶれない軸としての大衆」と(私は)呼んでいる。/民主党は「政治は生活だ」と、そこをうまく突いた。「参議院選挙の空気―業種別の倒産件数は「談合排除」などの影響を受けた建設業が1405件と最多だった。

一端、自分に危機が迫っている、と感じれば、ぶれた分はちゃんと取り戻す(これは「野生」としかいいようがない)。「改革か逆行か、と安倍さんはいったけれども、三歩進んで二歩下がる、とみんな知っているのでございますよ。」/今回の参議院選挙は、ぶれない軸としての大衆の、ぶれからの反発なのだ、というのが私の理解なのだけれども、それは宗さんのいう「政治バブル」への反発ということだろう。 (「参院選、政治バブルの終焉」とは、宋文洲はうまいことをいうものだ。若しくは、「ぶれない軸としての大衆」について。

しかしここでも、(小泉さんのおかげでw)「官僚批判」の軸だけはぶれることがない。つまり私の年金が少ないのは、私の生活が苦しいのは、官僚のせいなのである。

そしてぶれない軸として大衆は、政治家をコントロールすることは容易だと考えている。(選挙で落とせばよい=今回の参議院選挙での自民党の大敗=曰く、「お灸」だそうだ w)。

国民の目線

だから、「国民の目線」でいえば、問題は、ぶれない軸としての大衆が直接コントロールできない「官僚制」(公務員)にある。

つまり、「国民の側でなく、永田町の政治家の側に立っているイメージを持たれた」のではなく、「国民の側でなく、霞ヶ関の官僚の側に立っている(というか丸投げの)イメージを持たれた」政治姿勢こそが、今回の選挙の敗因なのだ、と(私は)思う。

言い換えればそれは、自らを棚に上げて、むやみに市場化を国民に押し付けている官僚をコントロールできない(もしくはその片棒を担いでいる)、自民党への批判、ということだ。

つまり、自民党は、小泉さん、安倍さんと二代に渡り、市場主義ではなく、官僚主導の市場主義(似非マーケット・ソリューション)を選択してきたに過ぎない。そのことで、自民党は選挙に負けたのだ、と(私は)思う。

しかしその2分コード(官僚主義/似非マーケット・ソリューション)をつくったのも、小泉さん時代の自民党であることで、つまり自民党は敗れるべくして敗れたのである。

だからといって、「国民の目線」は真正の市場主義を求めているわけではないこともあきらかだろう。(小沢民主党は巧妙にこれを隠しなはら、真性の市場主義の導入を企んでいるように思えるが)。

反市場主義的なものでも、国民の生活を守るためには、必要なものは必要なのである。政治家が、ある教義のために国民の生活を守れない(それが今の自民党だろう)ようでは、それは政治ではない。

しかし今の自民党には、これを理解し、解決できるような中庸さがない。灰色は、小泉さんがみんな追い出してしまったのだからね。w

せいぜい「国民の目線に沿った政権運営が求められる」というような、抽象的な物言いしかできないのは、なんともなことだ。それでも、がんばれ自民党、と私はいうのだけれども。w

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