ねぎどんの「かき揚げ」は何が入っていても単純に「かき揚げ」なのである
午前5時起床。市原は晴れ。「ねぎどん」で食べる蕎麦はうまい。ちゃんと蕎麦の味がする。そしてその蕎麦を引き立てるようにある「かき揚げ」がまた格別なのだ、ということを今更ながらに思い知ったのだ。
この日は「おおもり」と「かき揚げ」を註文したのだが、「かき揚げ」が遅れてやってきた。なぜか、それはおばさん忘れていたからである。
そのおかげか、あたしの直前に出たものと中身が違うのだが、これが笑える。前のは桜海老が散らしてあってピンク色なのだが、私のものは春菊が入っている。
単純に色が違うだけなのか、との思いは間違いであって、味も全然違うのだ。なにせあたしの「かき揚げ」にはあの春菊入りと来ている。
いや、これでなくては、と思わず拍手したくなった。この店はまさに正しいのだ。
それは中に何が入っていようが「かき揚げ」は「かき揚げ」なのだ、ということを教えてくれているからである。
桜えびであれ、春菊であれ、例えパイナップルが入っていても「かき揚げ」は「かき揚げ」なのである。
であれば、その時の気分で「かき揚げ」と云ってもらえる「ねぎどん」はなんと素晴らしい店なのだろう。
まさにルネ・マグリットの 『夢の解釈 Key to Dreams 』(1930年)である。馬はドア、時計は風、花瓶は鳥でいいのである。
これは絶対にチェーン店には真似できないし、それどころか「ねぎどん」のおばさんしかできない技なのだと思うのだ。[浅草でランチ]