かぶら寿しと大根すしかぶら寿しと大根すし


ねぇさん

午前5時30分起床。浅草は晴れ。大阪の「ねぇさん」から(いつもの様に)「大根寿し」と「かぶら寿し」が送くられてきた。あたしはこの「かぶら寿し」と「大根寿し」が届くことで、大阪の「ねぇさん」を思い出すのだ。それは、あやうい記憶になりつつある「ねぇさん」の懐かしい記憶である。

「懐かしい......」、そんなことを云っていいのか、と思う。最後に「ねぇさん」と会ったのは一昨年の6月ではないのかと。そう、まだ2年も経っていないのだ。でも兎に角懐かしく思う。と云うことは「ねぇさん」をどこかで忘れているせいではないのかと思う。

「ねぇさん」をどこかで忘れている。

けれども「ねぇさん」と何処かで繋がっていると感じている。

そう考えてふと思った。これも「広くて薄い紐帯」なのだろか。いや待て、「更に薄くて広い紐帯」なのかもしれない、と。あたしと「ねぇさん」はどこかで繋がっているのだが、どこかで忘れているのだ。その感覚は(感覚的に)素晴らしいものだと(あたしは)思う。

人と人とは年中会っていればそれは「円環」の関係を構築してしまう。良くても悪くても避けようがない。

だけど、あたしと「ねぇさん」のような「どこかで繋がっているのだが、どこかで忘れている」関係は、いったい何と云えば良いのだろうか。多分、これから先も「ねぇさん」とあたしの関係は似たようなものだろう。例え「大根寿し」と「かぶら寿し」が届かなくなってても、この関係は変わらない(と思う)のだ。