先に「ひねり」の例として、Reversal反転、左右反転、上下反転を例示した。
DOB
創造性において、その典型はReversal反転(リバーサル反転)である。その事例として、法大EC第1回講座では村上隆の『DOB』を簡単に紹介した。
左がDOBである。シルエットを見ると、まるでミッキー・マウスなのだが、それは、このキャラクターが、世の中に存在する「かわいい」要素のハイブリッド(マッシュアップ)であるからだ。そのポジであるDOBを、リバーサル反転させたものが、右の『二重螺旋反転』(Reversal D・N・A)である。
ここでのDOBは不気味な姿に変化している。村上は「かわいい」から「不気味」への反転を「わざと」やってみせることで、日常に亀裂を入れようとしている。それはスーパーフラットな「かわいい」が再構築され氾濫する社会が持つ不気味さを強調している。
『二重螺旋反転』は、(かわいい)DOBのもつ二面性の一面としてある。DOBの「かわいい」を否定している――しかしDOBはかわいい。物事は二面性をもって存在している。つまり描かれているのはどちらもDOBであり、ふたつの作品は同じ対象の表裏でしかない。「かわいい」は「不気味」とたいしてかわらない。
神話のアルゴリズム
これは、神話のアルゴリズム(レヴィ=ストロース)の言っていることでもある。法大ECではガメラとギャオスでこの関係を示した。
Fx(a):Fy(b)~Fx(b):Fa-1(y)
:はアナロジー関係
a=ギャオス x=ギャオスの機能
b=ガメラ y=ガメラの機能
簡単にいってしまえば、ギャオスもガメラも似たようなものだ、ということだ。
ギャオスが悪さをする。そこにガメラがやってきてギャオスと闘う。その時、ガメラはギャオス性を帯びる、つまり、ガメラとギャオスはたいしてかわらない。それが Fx(b)である。
これは平成ガメラ三部作の三作目をご存知の方ならすぐにピンとくることだろう。
イリスを育てた少女にとって、ガメラは家族を殺した仇(かたき)でしかない。ガメラがギャオスを退治するのはわからぬでもないが、その都度、都市を破壊し人が死傷する。つまりガメラは人類の味方なのか敵なのかよくわからない――たぶん地球の守り神であって人類の味方なのではない。
物語の終わりは予定調和である。ガメラはギャオスに勝利をおさめ、ギャオスはもういない。それが a-1 である。それはギャオスはいない状態(でもガメラはいる) Fa-1(y) である。つまり、ガメラのおかげでギャオスが悪さする世界秩序 Fx(a)は、ギャオスのいない世界秩序 Fa-1(y)に書き換えられている。
しかし考えてみれば、ガメラであろうがギャオスであろうが、そんなもんがいたら迷惑なことはにはかわりはない。いってしまえばガメラがいるために災い――ギャオスはまたやってくる。平成ガメラの三作目のラストは、空を飛ぶ無数のギャオスだった。つまりまた振り出しに戻るのである。
創造性・デコード・エンコード
この(私による)解釈は、絵画や映画の表徴の一端を語っているに過ぎない。しかしそれは、対象のデコード→エンコード→再デコード(→再エンコード→再々デコード……)という繰り返しの何度目かのデコードとエンコードである。つまり(私による)ささやかな創造(想像)なのである。
これが(私のいう)「考える技術」の一端なのだが、その作業はある構造に沿っておこなわれている。それがキアスムである。
それは陳腐なことに過ぎないかもしれないが、村上隆の「二重螺旋反転」や「ガメラ」という創造と同じ構造を持っているために、それらの構造を読むこともできる。
つまりそれは、対象のデコード→エンコード→再デコード(→再エンコード→再々デコード……)という繰り返のための最も基本的な定規のようなものだ。
創造性エンジン
勿論、私の創造・想像は、上記の作品とは比較にはもならないが、その大きな原因は、実装している「創造性エンジン」の違いだと私は理解している。
芸術家やクリエーター(と呼ばれる人々)の場合には、この図式の中に(個人特性としての)ひらめき、直観・直感といった非合理性(非対称無意識-野生の思考)が、大きな「創造性エンジン」として働いている。
だから芸術家は芸術家なのであって、私のような凡人とは使っているエンジンが根本的に違うわけだ。芸術的な創造性を発揮出来るか否かは、ある意味「天性」――それを私は「オタク的才能」とよんでいる――に依存している(と考えている)。
つまりそれは、凡人としての私が望んでも手にできないものであり、私の持っている「創造性エンジン」とは馬力が違いすぎる。
キアスム―創造性
凡人としての私は、凡人としてのキアムスを後追いの「知識」として実装してきた。それは「知識」であるが故に、馬力の小さいインスピレーションであり、それはいつもガス欠なのある。
しかし、実生活においても、些細なことでさえ、ものごとを決めるのは直感である。それは「骰子一擲」を孕んだ非対称無意識―野生の思考なのである。であれば凡人の「考える技術」においても、直観・直感の馬力アップができれば嬉しい、と私は考えてきた。その実装のための実践を、簡単にいえば、次のようになるだろう。
観察すること、言語化すること、バルネラブルに表現すること。
そしてつながること。
観察すること、言語化すること
「観察すること」と「言語化すること」とは、デコードであり、指し示しであり、データベース化である。観察の対象はなんでもよいだろう――これは、興味がないことは続かないことも事実だ。本を読んでもいいし、食べ物や車のでもよい。勿論、自分の仕事のことでもよい。
表現すること
「表現すること」はエンコードにあたる。ハイブリッドでありマッシュアップの実践だ。その最も手っ取りばやい方法は書くことである。そしてそれがバルネラブルであるためにITを使う――ブログ化。日本語はなによりも書く為の言語なのである。
つながること
そして「つながること」は、エンコードに偶有性を孕ませるための手段である――さらにブログ化。偶有的(骰子一擲)に混じる(ハイブリッドされる)データの存在は、創造の醍醐味である。それはなにも難しいことではない。家族と会話をしたり、同僚や、先輩や後輩と話をすることからはじめればよい。経営に限っていえばイントラネットはそのためにある。
芸術人類学
中沢新一(著) |
クロード・レヴィ=ストロース(著) |