ノート術
日経ビジネス・アソシエの2006・06・06号の特集記事は、『いつも結果を出す人の「ノート術」本当の極意』というものだ。
実は、この「店主戯言」をブログ化するついでに、タイトルの変更も考えていたのだが、その候補のひとつが「ももちノート」だった。それで、「ノート」と云う言葉がフックとなってこの雑誌を買ってしまったわけだ――今現在、その名前は、はてなダイアリーに受け継がれている――。
生憎、他人のノートの覗き見趣味なんて持ち合わせてはいないが、どんな使い方をされているのかは興味があるし、ましてや「達人」と呼ばれる方々ならなおさらだろう。
ビジネス・ノート
しかし、紹介されている方々は、ノートの達人というよりも、どちらかといえば、ビジネスの達人らしく、夫々の使い方には、なるほどな、と感心するところも少なくはないが、私が「縦書き」でノートをとるきっかけとなった、立原道造の「盛岡ノート」のような、「本当に凄い!」と思えるものは残念ながらなかった。(図:『深沢紅子と立原道造』:p103)
それは当然のことかもしれないが、この特集の中でも、「縦書き」でノートをとっている方は皆無であり、ビジネスライクな、どちらかといえば合理的な思考には、「縦書き」は向かいない、と云うことなのだろうか。
高橋慶一朗氏
しかし、ユニ・チャームの高橋慶一朗氏のインタビュー記事には唸らされた――高橋氏は45年間、650冊のノートを書き続けているとのことだ――。
(ノートとは)ただ記録するだけのものではないですね。人生を豊かにする一番身近な、毎日できるトレーニングの方法です。スポーツの世界ではプロが朝から晩までずっとトレーニングをしている。それは頭で覚えるのではなく、身体で覚えるためでしょう。
ビジネスパーソンにとってのノートも同じです。毎日書き続けることによって、自分の能力が高まり達成感が得られる。誰でもやろうと思えばできることを、一流の人は繰り返し継続してやっている。まさに継続は力なりです。一流になる人と二流で終わる人を分けるポイントはそこだと思いますね。(p29)
結論からいえば、「考える技術」の個人的実装とは、まず第一に、高橋氏のいっていることの実行でしかないだろう。
書くということ
それは、毎日一行でもいいから書くということだ。
- 観察すること
- 言語化すること(日本語で)
それだけである。
IT化へ
ここに情報技術を使って、「表現すること」と「つながること」の可能性を考えているのが(私のいう)「IT化」である。具体的にはイントラネットやブログの活用である。日経ビジネス・アソシエには、渋谷ではたらく社長こと、藤田晋氏のコラムがあり、今回のお題は「ブログの正しい使い方」であった。その締め括りはこうだ。
初めから「書かない」と決めつけてしまうにはもったいない。まずは一度書いてみて、それからどうするか決めてみてはどうでしょう。書いてみたら仕事での悩みについて頭が整理されたなど、想像したより役に立ち、自分に合ったブログの活用法も見つかるかもしれません。(p23)
Web2.0
Web2.0ミーム的社会は、情報技術の発展が支える、私たちがIT化すること――つまり情報技術を使ってコミュニケーションすること――で進化する(ミーム的進化のアルゴリズムを持つ)社会のことだ。
それは、限りなく「1.5の関係」(小此木啓吾)な社会であり、母性的な環境であり、人間の無意識的舞台裏の世界だ、といえるだろう。
なので、ここではあらゆる概念が再構築されることになる。
例えば「信頼」という概念も、かつての象徴界的――ラカンの言葉では「転移」の方が良いかと思うが、まだ講座では説明していない――父親的(ファロス)機能の強い時代や、その社会のものとは違うということだ。
母性的
つまり、Web2.0 memは、「情報技術による信頼の実装」、「技術への信頼」のようなものが、「信頼の担保」として(新たに)機能しているのであり、それはなにか、母親的に機能し、母親的安心感を「私」に与えている。
それは、中景的に、人間関係的に、父権的に構築されてきた「信頼」や「安心」ではないことで、「中景」(つまり協会や企業)の機能(存在意義)も、今と以前では違ってきて当然なのである。
その母性的な部分や「1.5の関係」(おたく的世界観)を批判される方は多い――例えば愛国心を強調するようなかたちで――が、私は、この「1.5の関係」をそんなに悪いものだとは思ってはいない。 例えば柳田邦夫氏の『壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別』への書評を参照して欲しい。
パトリ
これは、「地域再生」とか、地方の中小建設業を応援しているお前の立場と、矛盾するのじゃないのか、と批判されそうだが、矛盾はしていない。私は何よりもパトリ(郷土愛)を強調するだけだ。
Web2.0的世界(1.5の関係)において、まず私たちが実装すべきものは日本語である(その意味で私は愛国者である)。私は、Web2.0 memeの持つ管理型権力に対しては、楽観的な態度をとっているが、その楽観さは、私たちの精神構造と、その原初抑圧装置である「日本語」の仕組にある。
この日本語の部分の解説は長くなるので(ここでは)端折る。「法大EC用メモ‐日本語の構造 」を参照して欲しい。(解説としてはかなり雑なものだが)。
日本語で考える技術
私の「考える技術」は、何よりも「日本語で考える技術」なのである。日本語は、西欧の言語に比べれば、抑圧装置としては弱い。それ故の近代化後進国であるのだが、それは合理的に情緒的が勝る言語である、ということでもある。
しかし、その構造が生む「創造性」は、むしろ、今と云う時代には有利に働く、と考えている。つまり、Web2.0的世界は、精神構造的には、「日本語で考える世界」に、とても似ている、と感じているわけだ。以上、マッシュアップ的に法大EC第2回講座の反省を書いてみた。
参考文献
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『「ケータイ・ネット人間」の精神分析』 小此木啓吾(著) 2005年1月30日 朝日文庫 714円(税込)
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『壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別』 柳田邦男(著) 2005年3月30日 新潮社 1470円(税込)
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『深沢紅子と立原道造』 佐藤実(著) 2005年7月 杜陵高速印刷株式会社出版部
情緒としての盛岡ノート
立原道造の「盛岡ノート」はとても情緒的なものだ。それは詩人のノートですから当たり前かも知れないが、バイロジックの実装をみることができるだろう。(日本語で)観察すること、 言語化することの装置として機能している。