午前4時54分起床。浅草はくもり。
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齋藤孝(著)
2006年5月21日
宝島社
900円(税込) |
教えること
私はなにをどう間違えたのか、「教える」という仕事をしている。
今開講中の法大ECでは、「考える技術」を教えている、ということなのだろうが、「教える」ことについて、斉藤環はこんなことをいってる。
…人間が人間を教育することなんてできないと考えている。人が人を変えるようにみえるのは、変わりたい人間と変えたい人間がたまたま出会っただけに過ぎない。
あの地動説のガリレオがこんなことを言っているそうだ。「他人になにかを教えることなど出来ない。出来るのは、自力で発見することを助けることのみだ」とね。これなんか、すごく良くわかるな。このガリレオの言葉には、教育はおろか、転移というものの本質にすら射程が届いている。「発見を助ける」ってことは、発見したいという欲望、つまり「知への欲望」を、転移を通じて伝えることにほかならないからだ。
思うに、これってあらゆる「教育」の基本なんじゃないだろうか。のぞましい教育っていうのは、ただ知識や情報を子どもに詰め込むことじゃない。すぐれた教育者は、ほどよい転移関係の中で、相手に「学ぶ姿勢」(これもまた「知への欲望」のひとつだ)を感染させることができる人のことだ。(斉藤環)
引用: http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/index.html
欲望をあきらめない
つまり、ジャック・ラカン流にいえば「学ぶ」とは「欲望」であり、「欲望とは他者の欲望を欲望する」ことであって、教える者〈他者〉の学ぶ姿勢(知への欲望)への欲望だということだ。
私は「教える」ことなどできるわけもなく、大切なのは、私自身が己の「知への欲望」をあきらめない、という姿勢を示すことだけなのだろう。
それが学ぶ者〈他者〉に伝われば転移的に、「人が人を変えるようにみえるのは、変わりたい人間と変えたい人間がたまたま出会っただけに過ぎない」となりえる(かもしれない)。つまり教えることも「欲望」をあきらめないことでしかない。
憧れをあきらめない
齋藤孝曰く。
教えるということの一番の基本は、まず、教える相手(部下)のモチベーション(やる気)をかき立てるということです。/…では、相手のやる気をかき立てるために、何がいちばん大事なのかというと、教える側の人間が、いまからやろうとしていることに恐ろしいほどの憧れを持っていることです。/人間というのは不思議なもので、人が憧れているものに、ふらふらっと憧れてしまう性質を持っています。(p16)
つまりこれも精神分析でいう「転移」にほかならず、「憧れ」とは「欲望」である。翻って私に「教える」資格があるとすれば、それは知識量や技術的なものではなく、それらを追い求める「欲望」ゆえでしかないと思うし、そうありたいとも思う。
しかしその欲望が「円環モデル」の中で収斂してしまうものなら、新しい知識へのリンクはできにくいのも、また、たしかなのだろうが、そもそも円環(基礎のことだ)が無ければ、円環の外にでることもままならない。ん~難しい。