キアスム交叉図式のトポロジカルな表現はメビウスの帯となる。それは紐で云えば、円の結び目を一端切り、再び結び目をつくりそれをさらに結ぶことであり、円環モデルとはトポロジーが異なる。
円環をひねってもメビウスの帯にはならない。
一端切断する必要がある。
つまり私たちが実装しようとする「考える技術」を、キアスム交叉図式で表現できるとして、それがメビウスの帯と同じトポロジカルな性質をもつとすれば、そして私たちがもし円環のトポロジーからはじめなくてはならいのであれば、その円を一端切ることは不可欠なものとなる。もし、円環のトポロジーからはじめなくてはならいのであれば、「考える技術」の実装はトポロジーの変化とならざるを得ない。
その変化は、一端切断しなくてはならないような、外的若しくは内的な、ある意味荒っぽい干渉を伴うことになる。――例えば「痛みを伴う構造改革」というのはこの類であろう――。
それは〈外的/内的〉〈環境/システム〉の相互作用なのだが、トポロジーの変化はこの二つのコミュニケーションから――その動機(判断)は――生まれる。(今回はその具体的な生成のメカニズム――例えば世論やポピュリズム――には触れない。)
その切断が、いまの大きな流れである、例えばナイーブな市場原理やリバタリアニズムのもつ合理性を動機としておこなわれるなら、円環のトポロジカルな特性であった「共同体性」(中景、種)はさらに喪失してしまうことになる。
これは次回の講座でもふれるが、日本的な共同体性(第四象限)のもつ非合理性は、ある意味、創造性の根源である。
であれば、上記のような、ナイーブな動機によるトポロジー変化は、第四象限的共同体性の否定であることで、創造性を喪失させてしまう可能性は高くなる――マニュアル化のような目的合理性を強調した場合、それが負のフィードバックとなることで、システム自体が創造性を孕みにくい――。
つまりトポロジー変化(特に政治的手法において)は、ナイーブな動機で闇雲におこなうものではない(その意味で私は保守を支持している)。壊せば生まれるは、第四象限的共同体性が持つ創造性の破片が残っている間のものであり――例えば戦後の高度成長期――、第四象限的共同体性(中景・種)が殆ど消滅してしまっているいまは、それを期待する時期ではないだろう。
つまり、いまおこなうトポロジー変化とは、非合理性を合理性にするものではなく、むしろ合理性がつくりだす円環(負のフィードバック)を、ある意味非合理性を孕んだ第四象限的なメビウスの帯(正のフィードバック)とすることである。
そのためには、いまある第四象限的共同体性を生かしこそすれ、破壊することは本末転倒である(その意味で昨今の地方の疲弊の問題は大きい)。
これには、動機自体がバイロジックである必要がある。だからそれを「象徴の一部否定」と呼んでいるのだし、その象徴とはむしろ合理であることを、そして自らの〈変えてはならないもの/変えてもよいもの〉を知らなくてはならない。
そしてひとつ付け加えるのなら、日本的な第四象限(イエの原理)のトポロジーは、本来、円環ではないのである。
060808改定:
自分で読んでいてもあまりに分かりにくい表現だったので、大幅に書き換えた。