10月20日、東京独演会で使用したPPTをアップしたのでご自由にお使いください。


タロサの感想文(例によって無断借用)

今日のメインは「日本人は利己的である」という話だ。 パトリ(中景)の喪失は不幸なことであるということは判っていても、では、それがどう不幸なことになっているのかについて今までは明確な答えが出ていなかったように思える。 しかし、「日本人は利己的である」というヒントを得て、パズルの最後のピースがはまったような感じ。あとは、これをいかに自分の言葉として構築していくかが今回の実験的要素だったのだろう。日本人が利己的というのは、一般的に日本人は集団主義で利他的だと思われているのと正反対の考えであるから、これを覆すのは容易でない。 そこをどう理論武装していくのか。今後の楽しみである。

で、ボク的な理解は「人間は生まれながらにして性悪である」ということだ。 ボクは昔から性悪説を信じている。人間は生まれながらにして性悪なのだ。それを後天的な環境で抑え込むことで社会生活に適応する人間にコントロールされている。 したがって、環境=タガが外れたら、人間は悪いことをするようになるのだ。 ボクにとっての人間とは日本人であるから、つまり性悪=利己的と考えれば、日本人は先天的に利己的であるということだ。 で、環境=パトリ(中景)であり、それが喪失してるんだから日本は悪くなるに決まってるのだ。 まぁ、そんなことを思いながら聴いていたわけですよ。 今日のボクは少し機嫌が悪かったので、結構、辛辣な言葉を吐いてしまい、ちょっとだけ反省してる。 ごめんなさい。でも、性悪なんだからしょうがないです(爆)

今回の独演会の位置づけ

今回の独演会は、11月14日に岩見沢市で予定されている空地建協・地域再生セミナーのための準備という位置づけであった――そのイベントでは20分の開口一番と、山岸俊男先生との1時間の対談が予定されている――。

その20分の短い講演の下書きが「浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。」 であり、これにイベントのすべてを要約しようと本気で企んでいた。

それは「浅草寺の子宮的構造」をベースにしたもので、それはまだ講演として成立させたことはなかったので早めの試し撃ちが必要だったのだ。結果は「要再考」なのだけれども、まだ時間があるし、なんとかできると考えている。

性善説/性悪説

さて、上記のタロサの議論からはじめるなら、人間は性善的(利他的)でもあり性悪的(利己的)でもあるのだと思う。つまり自己複製子(遺伝子・ミーム)で考えれば、人間は両方の特性を持っていると(私は)考えている。

なぜなら、ないものは表出しようもないからであって、人間は時として利他的でもあり、また利己的でもあるのは、その両方を自己複製子(遺伝子・ミーム)的に持っているからとしか(私には)云いようがなくて、それが環境と自己複製子同士(遺伝子とミーム)の相互作用で表出する(表現型)のだろうと考えている。

その両義性を持った人間は、進化的に性善の部分(つまり利他性)を社会システムとして表出(デザイン)したほうが、淘汰圧力に対して有利であることを、それこそ進化的に自己複製子(遺伝子・ミーム)に組み込んできたのだろう。

それを確認できるのがゲーム理論なのだとろうと思うし、これは不用意な云い方かもしれないが、社会システムは利他性に向かって進化してきた、と(私は)考えている。なぜなら、その方が進化的に有利だからだ。―かなりトートロジーぽいな。(笑)

日本人は利他的なのか

この視点は、社会システムを人類のこころの進化、つまりこころの「延長された表現型」(リチャード・ドーキンス)として見ることを可能とすると考えている。そして利他性が有利な戦略なのであれば、社会システム(秩序・制度)は、人間の利他性を引き出すものとして設計(デザイン)されるべきだと考えている。

こころの特性として、日本人の利他性は、欧米に比べて低いことは山岸俊男先生などの実験であきらかにされているけれども、そうであれば、社会システムは個人の利己性を強調させるよりも――最近の政策は殆ど利己性の強調のようなものだが、曰く自己責任――、むしろ利他性を引き出す型(かたち)であるべきだと考えている。つまり、日本人は遺伝子的に(ミーム的に)共同体性が必要なのであり、そこにおいては、正直は最大の戦略なのである。

06041801.jpgその意味で安易な欧米流の合理性追随型の制度設計を(私は)批判しているし、利他性の根源としての第四象限(パトリ)の安易な破壊を批判している。

それはつまり、利己的な日本人に利己性を強調し、正直は最大の戦略である、を否定しているに過ぎないのではないかと考えている。

それはわが国のこころの国力(進化的な力)の衰退を加速するものでしかないだろう。