桃知商店よりのお知らせ

公-共-私の概念―ComPus Forum で恩田守雄教授の講演を聞きながらトポロジーな思考を繰り返していた。

昨晩は、ComPus Forum 【地域経営の実践と戦略を考える2】『互助ネットワークを活かした地域づくり』に参加してきた。(今週はSE的な仕事ばかりで、ひきこもりになりがちなので、あえて外に出てみた)。

皆さん大変お世話になりました。ありがとございます。

公共私-恩田モデル

理想としての「公-共-私」の三位一体

そこで、恩田 守雄先生(流通経済大学/社会学部教授)の「互助ネットワークを活かした地域づくり」という講演を拝聴させていただいたのだが、その主張をまとめれば、左の図で表徴できるだろう(恩田先生が示した図を書き写して清書してみた)。

この図は、「公-共-私」の三位一体的なバランスのよい社会を表現しているが、それはわれわれが目標とすべき社会のありようを、トポロジカルに表現したものであるだろう。

しかし今という時代の問題は、「共」の領域――社会・市民組織(連帯と共生)――がうまく機能していない(というか、領域そのものがなくなりつつある)とし、であれば「共」の領域を確保し、機能させなくてはならない、と恩田先生はいうのである。そして「共の領域」のヒントを、前近代(プレモダン)の社会を支えてきた「互助ネットワーク」(互酬・贈与の関係)に求めている。


トポロジーでの理解

恩田先生のトポロジカルな図を、私が使う「ボロメオの結び目」に置き換えれば、下の左図のようになる。

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さらに右図の「贈与-交換-純粋贈与」のトポロジーと対比させてみれば、つまり恩田先生の示した「公-共-私」の概念は、バタイユのいう普遍経済学と同じトポロジーとなることがわかるだろう。

恩田先生は、「共」の特徴として、「ユイ」や「モヤイ」や「テツダイ」といった前近代(プレモダン)的な共同体にある、互酬的な制度を例示されていたのだが、それはつまり「贈与の原理」なのであり、「私」の領域を「経済・市場)(自由と効率)と指し示すのは、普遍経済学的には「交換の原理」なのであり、それはその通りだと思うし、「公」が本来見返りを求めない「純粋贈与」であることはいうまでもない。

つまり認識の方法は、私とたいしてかわらないので、非常にわかりやすい(というかわかりやす過ぎる)内容ではあった――Web2.0と経済のはなしはなかったけれどもね。(まあ、それが問題なのだが)――。

恩田先生は、「公-共-私」のトポロジーの時代的変化を次のように説明されていた。

原始共同体

原始共同体モデル(恩田)まず、原始共同体だが、「公-共-私」の領域はすべては重なりあっている。

それは「公-共-私」の区分がついていない状態であり、私即共であり、共即私であるような――正確には「公」と「共」の区分さえないのだろうが(つまり本当は図示することもできない)――、主格未分離の状態といってもよいだろう。

それはレヴィ=ストロースのいう「野生の思考」が支配的な社会であるのだろうな(と私は)思う。

前近代

前近代モデル(恩田)前近代のモデルは、、「公-共-私」の領域は等しく同じ大きさで、その一部が重なりあっている。

これは、恩田先生の最初の(三角形の)図、及び、私の「公-共-私のボロメオの結び目」と似ているようにみえるが違うものだ。

つまりこのモデルでは、「私」(交換)と「公」(純粋贈与)には直接的な重なり合い(結びつき)がないのであり、普遍経済学的にみれば、そこには「資本」は生まれないし、政治的にみれば市民の国政への参政権はない。

また、「私」を「個」(市場・効率性の強くない私の領域)と置き換えれば、田邉元のいう(初期の)「種の論理」に近いものになると(私は)思う――中心にあるのは「公」であり、それはつまり「種」である。「公」は「類」である―― 。

これは、西欧的な資本主義経済や近代化の運動が、社会に蔓延する以前の共同体モデルと理解することができるだろう――それは日本では「イエの原理」であり、時代区分では江戸時代までの社会なのだが、明治以降も、昭和の高度経済成長期ぐらいまで、それが色濃く残っていた。それがなぜかは恩田先生から説明はなかったのは残念だった。かといって、私の持論をここで展開するのは野暮だろう――。

インターネット社会恩田先生もおしゃっておられたが、このモデルは、かなり合理的なのであり、効率的なのである――但し、第四象限的な、実践合理性としてではあるが――。

それ故(第四象限であるが故)に、資本の運動には、邪魔(種としての共同体の持つ贈与の原理)が多いので、近代化先進国からみれば、非近代的(非合理性)として指摘されてきたものだ(つまり構造改革の「構造」とはこれだ)。

恩田先生が、「互助ネットワークを活かした地域づくり」というときの、「互助ネットワーク」は、この前近代モデルにある「贈与の原理」(ユイ・モヤイ・テツダイ)なのである。私はそれは正しいとは思うのだが、それ(贈与の原理)をこのまま、今という時代に持ち込むことには、かなりの違和感(というか「無理」)を感じた。

近代

近代その違和感の原因は、この近代のモデルの理解にある。

近代のモデルは、「共」は独自の領域をもたず、「私」と「公」の領域の間のかさなりあいに、かろうじて存在している、というものだ。

私は今という時代なら、その理解に、このモデルを適合させるに違和感はない。

しかしこれは、近代(モダン)というよりも、ポストモダン(東浩紀のいう意味で)のモデルであるように思える。つまりこれは「1.5の関係」モデルなのであって、象徴界(中景、パトリ)が消えかかっている社会――象徴の貧困――のことだろう。

ボロメオの結び目それはラカンのボロメオの結び目的にいえば(つまり人のココロの問題としては)、資本の、そして近代化の運動が、人々の「象徴界」を喪失させた後のモデルだということだ。

つまり「私」(「個」)の領域は、「バロックの館の1階部分」を失った、(つまり中景のない―モナドにもなれない)ただの「点」なのである。ただそこでは資本の原理が冷たい運動を続けている。

そして全体性を失った「点」としての「私」は、「想像界」を通して(分離-不安的な情動、若しくは動物的に)、今やバーチャルなネットワーク(インターネット)に「共」を探し出そうとしている。――つまり中途半端になっている「贈与としてのインターネット」の理解はここにあるのだが、その続きは、ぼちぼちとだね...(笑)――。

そもそも、ラカンのボロメオの結び目の「象徴界」の位置に、「交換の原理・資本の理論」が入り込んだ過程こそが、じつは地域づくりを考える方々の、もっとも大きな関心であってよいのだと(私は)思うのだが――地域は資本の理論に翻弄され、第四象限―贈与の理論、中景つまりはパトリ性を失い、そして疲弊している――、今回の恩田先生はこの部分への言及はなかった。

所感

なので恩田先生の「互助ネットワークを活かした地域づくり」理論には、資本との接続部分、そして今や「贈与」はインターネットにあることが、抜けてしまっているのだと(私は)思う。

私は恩田先生の「互助ネットワーク」の研究には違和感はないし、その地域づくりにおける基本的な考え方――例えば、地域づくりにおける主体と客体である、「住民の、住民による、住民のための地域づくり」――には、賛同せざるを得ないし、「マチ社会の原理」と「ムラ社会の原理」、マチとムラの交流案も興味深かった。

さらに、フィールドワークによる、地方に残る「贈与の関係」(互種的な制度)の数々の紹介は、「11月14日の地域再生セミナー」にも関係することでもあり、もっとはなしを聞いていたいなと思ったのもたしかだ。それはまるで宮本常一の本を読むように、パトリ性とは、利己的でもあり利他的でもある人間が、進化的にとってきたココロの戦略であることを、教えてくれるものであった。

ただ、その民俗学的に残る互酬のシステムを、今の時代に適応させ、理想としての「公-共-私」のトポロジカルな関係を実現させるのは、なにをどうしたらいいのだろうか。そのあたりになると恩田理論は急にトーンダウンしてしまうように(私には)思えた。

それは、その対象には、地方が抜けてしまっているからではないだろうかと思う(私はこれに関して、ある質問をしたのだが、それについては別エントリーで書く予定)。

つまり、恩田先生の理論が適応できそうなのは、首都圏内の比較的経済状態のよい新興住宅地、それも世代的には団塊の世代より上ではないだろうか、と私は(直感的にだが)感じた――それは少なからず農村的なエトスが残っている方々という意味でだ――。

しかし、地方都市の疲弊は、首都圏に住む方々の想像をはるかに超えていると、私は感じているし、問題は、もっと若い人たちの「共」の感覚の変化なのじゃないのか、と(私は)感じた講演であった――つまり既に私たちは農村的ではないのである――。

追記

061111追記:このエントリーの続きてき記述として「贈与としてのインターネット―理念モデルとしてのライプニッツ的個(モナド)つまりは田邉元の「種の論理」の確認」を書いてみた。

Comments [4]

No.1

中沢新一の三位一体モデルによれば

父=公
子=私
精霊=共

になるのかなあ。なんて、
読みながら考えました。
最近、○三つ書く機会が増えました(笑)

No.2

>嵐を呼ぶ男さん

父=私 子=共 精霊=公
になるかと思います。(まだ本を読んでないので、確認できないのですが…)。

中沢新一さんの三位一体のモデルは、二年前、私と岩井國臣先生がコラボした地域再生フォーラムで、私が「狡兎三窟のトポロジー」としてやったものですね。
もちろん中沢新一さんからパクリです。(笑)
出展は『愛と経済のロゴス』p172あたりです。


No.3

桃知さま、ご参加いただき、誠にありがとうございました。
しかも、かなりの時間を掛けて、この議題を掘り下げていただき、感謝しております。この記事は、ComPusのメーリングリストにも紹介させていただきます。
この現代に「共」の領域をいかに増やしていくのかについて、私も掘り下げたかったのですが、その時間が取れず、申し訳なかったです。「共」の領域は、日本では福祉の分野や三島市のグラウンドワークの活動が最も発達しているように私は思いますし、アメリカではAsset-Based Community Developmentとしてまちづくり全般(しかも地域経済まで言及)で進んでおり、その辺りに希望の光が見えるように思います。

中沢新一さんは、「日本人にとって労働は喜びだった」と語っていました。この辺りも恩田先生の柳田国男さんの引用、最近山村の業について本「知られざる日本」を書いた白水智先生と一致して合点が行きました。

また、岩見沢市役所に私の知り合いがいますので、14日のセミナーを勧めておきました。

今後とも宜しくお願い致します。

No.4

>斉藤哲也さん

コメントありがとうございます。
私は「コミュニティ・ソリューション」を、農業共同体的な互酬性で考えたくないのですね。それは、端的にいってしまえば、若い人たちのココロの構造にあっていない、というこです。
なので私的には柳田国男よりも網野善彦の中世の研究あたりの方がしくりときたりしています。
今回はよい場を設けていただき、感謝申し上げます。
また機会があれば参加させてください。

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