午前7時起床。浅草は晴れ。
贈与・交換・純粋贈与
昨日書いた「中沢新一の『三位一体モデル』を読んで感じたこと。」を読み返してみると、落胆と失望の様相がみえみえなのだけれども、(私は)『三位一体モデル』の考え方そのものを否定しているわけではない。
ただこの思考方法に関していえば、中沢新一の「父-子-聖霊」のトポロジーよりも、バタイユ的な「贈与-交換-純粋贈与」のトポロジーで考えるほうが、今の時代(つまり経営=環境×原理、の「環境」のこと)を理解しやすいと(私は)思う。
例えば、今という時代に、なぜ公共事業という産業が追い詰められ、談合が絶対悪とされ、好景気といわれながらも地方が疲弊しているのかは、「贈与-交換-純粋贈与」のトポロジーで考えたほうが理解は容易だと(私は)思う。
贈与の否定
それを簡単にいってしまえば、「贈与の原理」が否定されているということでしかない。
談合や地域社会という共同体性の基本原理は贈与である。公共事業は自然に対する贈与である。
贈与とは、「互恵的利他性」に基づく、お返しのシステムのことだ。日本社会は、その贈与の原理で動いてきた。 もちつもたれつ、ギブアンドテイク、やられたらやりかえすのである。
(私は)日本人は基本的に利己的なのだと考えている。それは無宗教である(といわれている)ことで特徴的なのだが、例えばキリスト教のいう隣人愛(互恵的ではない利他性=純粋贈与)は、私たちには欠けている、ように思う。
ESS
しかし利他的な種が進化的に生存していないように、利他的なことは進化的に不利なのである。そこでわれわれは、ESS(進化的に安定な戦略)的に、互恵的利他性であることを、外部装置としてつくりあげてきた。
それを社会や文化や制度と考えればよい。つまり、公共事業という産業であり、談合であり、地域社会である(その他にもたくさんあるけれど)。そしてそれらは贈与の原理で動いてきた。
ではなぜそれが贈与の原理であって、交換の原理ではないのか、といえば、交換の原理(貨幣経済とでも考えればよいか)が大きくなったのは、人間の歴史ではつい最近のことであり、何よりもわたしたちは、ずっと自然を相手として進化してきたからだ。
自然とは純粋贈与である
縄文の時代は、採取生活だから、自然からの恵み(純粋贈与)だけで生を保った。あとはその恵みに感謝し、ときよりみせる自然の気まぐれな荒々しさを鎮める儀式としての信仰(贈与)が生まれる。
弥生の民が農耕をはじめれば、自然(土地)を世話することで(自然に対する贈与)、自然は収穫というお返し(純生産)をもたらすようにある。つまり自然に対する見返りを求める贈与が農業である。
しかし自然(純粋贈与:中沢新一的には「聖霊」)は気まぐれなのだ。時には収穫を、時には飢饉を、なのである。
自然のコントロール
その気まぐれさをコントロールしようとするところから科学は生まれるわけで、つまり科学的である近代経済学――交換の原理(資本の原理)――は、自然の気まぐれをコントロールしようとすることから生まれた。
なので科学が発達すればするほど、交換の原理はそこから力をもらい、贈与の原理の曖昧さ(お返しという等価交換ではない不確実性)を許さないようになる。
つまり科学的である交換の原理を絶対だと考えることで、贈与の原理(曖昧性であり利己性へのタガ)は不要だと考えられているのが、今の時代なのだと(私は)思う。
つまり談合という贈与の原理にかわり、市場原理という交換の原理が幅を利かす。
脳は贈与を好む
しかしその思惑とは裏腹に、わたしたちは贈与の原理で生きてきた時間の方が、交換の原理で生きてきた時間よりもずっと長い。そのときの記憶は、世代を超えてマイクロチップのように脳(無意識層)に蓄積されている――これは山岸俊男教授からの受け売りだが。
つまりそんな脳は贈与の原理を好むというのが、行動経済学のいっていることなのだと(私は)思う。人間は互恵的利他性を好む動物なのである。が、今の社会はそんなこと知っちゃいないといっている。そして私たちの心の中のボロメオの結び目は、バランスを失ってしまっている。
ということで、8時30分になってしまた。なので今朝はここまで。
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中沢新一(著) |