午前6時30分起床。浅草は晴れ。

週間ダイヤモンド2007/01/20号に掲載されていた、ポール・サフォー(米国の未来予測学者)のインタービュー記事が面白い。

キャピタリズム(資本主義)のかたちは一つではなく、いくつもの"言語圏"に分派しつつある。ここでいう言語とは、むろん英語やスペイン語といった言語そのものではなく、資本主義という教義の解釈の仕方を指す。

米国人が横柄な勝利主義者的な発想から全世界が模倣すべきと考えているマーケット・キャピタリズムはすでに、一つの“言語"に成り下がった。

サフォーは世界には三つの資本主義言語圏が存在しているという。それを簡単にまとめれば次のようになる。


  • マーケット・キャピタリズム(米国)
  • カルチュラル・キャピタリズム(欧州)
  • コミュニティ・キャピタリズム(アジア)

カルチャラル・キャピタリズム

カルチュラル・キャピタリズムは、その名のとおり、神格化する対象を、市場ではなく文化に見定めている。その解釈に従えば、なにより大事なのは、文化の継続性であり、精神的な故郷たる始祖との連帯感である。米国人が強迫観念のごとく唱える"個"や"変化"はここでは最高位の優先順位を与えられてはいない。

コミュニティ・キャピタリズム

一方、アジアのそれは、家族の延長線上に存在する、ある種のコミュニティを継続させることに最大の努力が払われている。"個"を美化しようとする趨勢は弱く、文化的安定性にもあまりこだわっていない。近似しているとしばしば指摘される欧州の"言語"とはじつは似て非なるものだ。

このまとめ方は、的を得ているのではなかと(私は)思う。

今回のインタビュー記事では、米国型のマーケット・キャピタリズムについては特に言及されていないのだが(まあ、米国内でのインタビュー記事の翻訳だから当然だろうね)、上記引用の部分を読んだだけで、それが"リバタリアニズム"に近いものであることは推測できるだろう。

つまりここの部分だ――「米国人が強迫観念のごとく唱える"個"や"変化"」。

私はとくに、アジアのコミュニティ・キャピタリズムを「文化的安定性にもあまりこだわっておらず、近似しているとしばしば指摘される欧州の"言語"とはじつは似て非なるものだ」としている点に共感を持ってこれを読んだ。

つまりこれは「イエの原理」なのだろうなと直感的に感じたわけだ。

当然そこには「米国人が強迫観念のごとく唱える"個"や"変化"」は(米国型とは)違う形で実現されることになる。

イエの内的な特徴として本質的なのは、個人に対する関係の優位性とでも呼ぶべきものである。イエは、個人の集合としてよりも、独特な内部性を呈する境界づけられた関係のネットワーク――個人の行為はそれによって規定される――として思い描かれるべきであろう。(大澤真幸『行為の代数学』:p359)

しかしそんなものでは、グローバリズムに対応できないとかで、「米国人が強迫観念のごとく唱える"個"や"変化"」に日本もなるべきだ、と訴える日本人もいるのだが、私は阿保かと思っている――もっと辛らつに言えば、そのような風潮こそが日本から個と変化を奪ってきたに過ぎない。

サフォーはこう言うのだ。

言語が異なれば、当然、すれ違いが起こる。たとえば、米国のボーイングは、欧州エアバスに対して、こう言うかもしれない。「ヘイ! 国から補助金をもらうのは非合法的だぞ」と。しかし、エアバスは言い返すだろう。軍との取引で間接的に補助金をもらっているおたくこそ法律違反だ」。ボーイング、エアバス共に、それぞれ理屈は立っている。しかし、互いを理解するには言語が違い過ぎる。

私が心配しているのは、異言語圏のあいだでの些細な軋轢が経済摩擦の枠を超えて、将来、軍事的な衝突に発展する可能性である。

そう言語が違いすぎるのだ。

資本主義は経済学的な教義においてさえ"言語"が違う――新古典主義/ケインズ主義の違いもあれば開発主義もあるだろう。

さらに資本主義とは、実際に稼動するとき、それは民族性との雑種(ハイブリッド)として機能すると(私は)考えている。

だとすれば、「すれ違い」を最小限にするためには――つまり経済摩擦の枠を超えて、将来、軍事的な衝突に発展する可能性を抑えるためには差異を容認する寛容性が必要となる。

隣人を尊重する! 敵と共存する!

かかる愛を持ったものは、政治的には自由主義でしかないのだが、それを呼び出すことは、もはや難しいのかもしれない――この国では小泉自民党がそれを壊し国民がそれを支持してしまっている。

(私が)願うのは、本当に「米国人が横柄な勝利主義者的な発想から全世界が模倣すべきと考えているマーケット・キャピタリズム」が、一つの“言語"に成り下がってしまったことを、米国人が自覚してくれることなのだが。