午前4時30分起床。浅草は晴れ。

あなたが今まで慣れ親しんで来たやり方や言葉遣いが通用せず、戸惑いそうな一日です。(今日の運勢)

ニュースを引用していること

このところニュースを引用してブログを書くことが多いのは、病気療養中で外出を控えているからだろう。(たぶん)

外に出ないで一日中部屋にいれば、身の回りで起こることは極端に少なくなり、私は日常の円環の中で繰り返されるような時間をただ消費するしかない。


そんな(私の)出来事(と認識されるもの)と言えば、せいぜいメディアが届けてくれるニュースぐらいしかなく、であれば、(私の)出来事の屑であるブログは、まあそんなもので埋められてしまうのである。

新聞詠み

メディアに流れたある出来事を引用して書くブログを、私的には新聞詠み(しんもよみ)と呼んでいる。新聞詠みは、アイロニーな自己を築きやすい(一種の反省である)ことで、まずブログ的であるように思う。

新聞詠みで書かかれたものとは、基本的には、鮮度だけが命の、アイロニカルであることで日常をやり過ごした後の〈私〉の屑のようなものだ、と(私は)思っている。そして新聞詠みスタイルのエントリーにはある特徴がある。

それは極私的な出来事を書いたエントリーよりも、比較的ページビュー数が多いと言うことだ。それは、メディアに流れたある出来事は、それだけで共通項である可能性が高く、共同体性をもってしまうからだろう――mixiでもニュースがネタふりに使われていることを考えてみてほしい。

ここに、アイロニカルでありながらも繋がりを志向するという、(今と言う時代の)ブログ文化の特徴を見ることができるわけだが、それはひきこもりぎみの生活をしていれば、(今の時代には)放っておいてもそうなるというだけのことであろう――つまりアイロニカルのゼマンティク、若しくは情熱として「アイロニー」。(笑)

新聞読み(しんもんよみ)について

新聞詠みとは河内音頭のひとつのスタイルであり、それも固有名で指し示しが可能であって、それは河内屋菊水丸のものである。

河内屋菊水丸は、新聞詠み河内音頭家元であり、新聞読みと言えば菊水丸であり、菊水丸と言えば新聞詠みなのである。新聞詠みは、私の語彙としては20代の頃からあって、けっしてあたらしいものではない。

最初の引用(つまり孫引き)は、なかむらとうよう責任編集であった『ニュー・ミュージック・マガジン』である。(今もあるのだろうか?)。

つまり新聞詠みというスタイルを持った音頭とりである河内屋菊水丸を知ったのは、その音楽雑誌を通じてであり、そうして知った菊水丸の音頭に(私は)結構はまっていたものだ。

新聞詠みとは、時事ネタを河内音頭にのせて歌う――ことで世間に知らせる――もので、口述伝承の典型だろうが、それをブログでやる意味は、と考えてみた次第。