午前5時30分起床。岩見沢はくもり。
岩見沢での短い講演
昨日は、岩見沢市にて短い講演。聞いてくださったのは、発注者の方と受注者の方。演題は別になかったけれども、あえてつければ「Web2.0と公共事業」ということになるだろう。
以下同席された、まにあ・1号さんのレポートである。(例によって無断引用、図の挿入は桃知)。(笑)
こんなテクストをあっさりと書くのだから、まにあ・1号さんの力量も素晴らしい――私は今朝反省を試みようとしたのだけれども、まにあ・1号さんのテクストを読んでそれをあきらめた。
まにあ・1号のレポート
■悪夢の始まり?
最初、桃知組長が「ボロメオの結び目」でWeb2.0の定義をし始めたとき、 私は、「これはダメだ・・・」と思ってしまった。
平易な言葉でWeb2.0を定義することだって容易ではない。 現に私は、他人にわかりやすくワンフレーズでWeb2.0を定義する語彙を 持てていない。ここ1年、真剣に勉強しているつもりでも・・・だ。
さらには、ボロメオの結び目に至っては、3年ばかりこれまた誰よりも 真剣に理解をしようとし、定義を試みてきたつもりではある。 それでも、やはり、ワンフレーズで語る語彙は持てていない。
純粋贈与・贈与・交換・・・なんじゃそりゃ???
居眠りを始めてしまう方、ワケがわからずそっぽを向いてしまう人、 早く終わらないかと時計ばかりを眺めてしまう人・・・ そんな悪夢のような光景を思わずリアルで想像してしまったのだ。
■Web2.0を定義する
農業で言えば、自然の恵みは「純粋贈与」(神の行為)であり、 農家の方が実りを求めて、大地を慈しみながら一生懸命作物を育てる 行為が「贈与」なのだ。 そして、その交点になる「純生産」が作物(商品)なのである。
見返りを求めず、ひたすら与える事、これを「純粋贈与」という。
(ホワイトデーでの見返りを求めて与えられる)バレンタインチョコの様に ある程度の期間を見越して、じっくりと見返りを期待して与える事。 これを「贈与」という。
そして、純粋贈与と贈与の交点に「純生産」(商品)が存在する。
そして、交換。交換は「市場原理」と言う言葉で置き換える事ができる。 これはインターネットがもつ合理性ゆえに、「等価」での交換を求める。 これが突き詰められると、共同体が破壊される。
Googleは私たちに素晴らしいアプリケーションや、軽快な検索エンジンを 提供してくれる。それも、無料でだ。その上、AdSenceを使えば、上手くす ると、お小遣いまでくれてしまう。まるで神様のような存在である。 私たち利用者にとっては、「純粋贈与」の存在である。
しかし、Googleは神ではない。れっきとした「営利企業」なのである。 googleは企業としてクライアントをもち「広告代理店」としてそこから収益を あげる。 最初は、検索エンジンの提供だけの「営業」であり、相手に「ただ、与える」 「与え続ける」だけである。そして、「そのうち、クライアントになってもらい そこから収益を得る」という手法である。
その手法はまさに、贈与(的営業)なのだ。 「(多少の長い期間を経てもいいから)お返しを望みつつも、最初は与える」 これが「贈与」である。
Googleはあたかも農家の方が一生懸命お世話をするように、インターネット のお世話をしている。 検索エンジンのたゆまぬ向上に留まらず、次々と使えるアプリケーションを 私たちに提供してくれる。=贈与的行為。
この、Googleの特徴そのものがWeb2.0の一つの側面である。
つまり、同じ「岩見沢」という共同体の中で耕すものは地域であり、 「岩見沢市民」の事を考えてあげると言う事でそれが「商品」になる。 (贈与の行為) この贈与という枠組みの中では、発注者も受注者も一緒であり、一生懸命 お世話する対象は市民であり地域である。
これがWeb2.0の定義であり、Web2.0下での「公共事業のありかた」であろう。
その為に、Web2.0の環境下で公共事業のあり方を考える、市民のために 一生懸命お世話させてもらう事を考える。 その為の一つの手段が、受発注者で共同で 行う現場状況報告なのである。
■将来図を定義する
Web2.0の定義を確認できたら、次は応用形と発展形のお手本の教示だ。
空知建協さんの現場状況報告で近未来のあるべき姿を導き、 芦別建協さんの協会ブログ=地域ブログでその発展形を具体的に示す。
そして、この芦別のブログに一般市民(それも地域在住の方の)書き込み (建設協会に対する市民からの情報発信)を見せることで進むべき姿は ひとまずのマイルストンにたどり着く。
見事な流れであった。
この二つの定義が枕にあったおかげで、その後の会議はスムーズに進む。
(以上、引用終了)
補足
この話は、「Web2.0と普遍経済学―2月7日山鹿市管工事業協同組合での講話用PPT。」の再生産でしかないのだが、物語(講演・プレゼンテーション)は、まず構造を身体的に取得し、パロール的に湧き出るデータ(語彙)を揃えることで、どのような場所でも、どのようなシチュエーションでもそれなりのものが出来上がる、と(私は)考えている。
それを「芸」というのだが、だから構造(かたち)を身体的に取得することは、すべての前提でしかない。
講演論はさておき、私は社会のWeb化が、公共事業にもたらす影響をずっと考えてきた(つもり)であり、Web2.0とは社会のWeb化の過程を名指す語彙でしかない――つまり進化の過程としての現在。
それは、「経営=環境×原理」に忠実な思考であり、つまり環境を読むことで自らを変化させることだ。
公共事業がその例外からもれることもないし、もれる必要もない――むしろ積極的に変化すべきものはするべきだと(私は)思う。
それは「変えてはならないもの」は絶対に変えないということでもあるが、その「変えてはならないもの」がつまりは、純生産を生み出す仕組みなのだと(私は)思う。