桃知商店よりのお知らせ

41歳からの哲学。(池田晶子)

午前7時起床。浅草は晴れ。

生きても死んでも大差ない

最近、『41歳からの哲学』を再読していて、、ネットで調べ事をしていたら、著者である池田晶子さんが先月23日に逝去されたことを知った。ご冥福をお祈りしたい。

彼女は、常々「生きても死んでも大差ないと思っている」と言っていた人だ。

私はもともと命根性が薄い。生きても死んでも大差ないと思っている。それは、実際に、生きても死んでも大差ないからであるが、言ってみれば、いつも何か地球を天空から見下ろしているような感じなのである。ここから見ると、自分の人生も人類の運命も、宇宙生成の一コマみたいにしか見えないのである。(池田晶子:『41歳からの哲学』:p17)

この言い方はともすると誤解を孕むが、彼女のこの考え方は、自分自身の存在を考え抜くことでたどり着いたものであって、凡人が突っ込みをいれられるよなものではない。定義なのである。


41歳からの哲学


『41歳からの哲学』

池田晶子(著)
2004年7月15日
新潮社
1260円(税込)

私が今になって、『41歳からの哲学』を再読していたのは、私の描く理想のテクストとして、彼女のテクストが存在しているからだ。

それは、最近私自身の書くテクストに荒れを(私自身が)感じていたからである――もっと丁寧に書かなくてはならない。

彼女の哲学的な態度に対しては、私は何も言えない――哲学とは自分自身の存在を問うものであり、極めて個人的なものだ――。ただ彼女の哲学的な態度と、そこから生み出されるテクストの切れのよさは真似をしたい。

そういう理想の存在として池田晶子はあった。「生きても死んでも大差ないと思っている」という彼女の言葉に沿えば、たしかに彼女は死んでしまったけれども、彼女のテクストは私の手元にある。それは「生きても死んでも大差ない」ことかもしれない。

そして彼女は死んでしまって、「地球を天空から見下ろしているような感じで」いるのかもしれないし、いないのかもしない――そんなことはわからない。けれども、彼女の読者としての私の中には、いつでも彼女はいるのであって、つまり死んでも〈他者〉の心のなかにいるかぎり、それは死=無ではないのである。

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Comments [2]

No.1

いつもMIXIにコメントしていました(笑)
私も、池田さんの「14歳からの哲学」を読んで、高校以来の、ソクラテス、プラトン・・を読み返しました。
小林秀雄はまだなんですが。 
池田さんの「覚悟」をその時に感じました。
私が、バイタリジェンス活動を始める、一つのきっかけの方でした。 生と死の差は、確かに解明できないんですよね。 物質的には死んだ前後で何も変わらないんだし。

ご冥福をお祈りいたします。

No.2

>アトムさん

私たちの世代には、池田晶子は強烈な存在でした。
それは言葉の力を信じ、書くことを諦めないその態度にあったと思います。
そしてそれを実践してみせた稀有な存在だったと思います。惜しい人をなくしました。

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