午前7時起床、浅草はくもり。初雪が降ったとのニュースが流れていたが、もちろんそんな形跡はどこにもない。私はと言えば、確定申告が終わった勢いで昨晩は飲みすぎてしまい、しっかりと二日酔いの朝である。

「子宮的構造」へのトラックバック

ぶろしき:「深い山の奥のぬるい水」で、「子宮的構造」へのトラックバックを頂いていた。いつもありがとうございます。

もう一つ思い当たったのは、日本人が持っているいわゆる「秘湯」への憧憬。人里離れた山の奥深くにひっそりとたたずむ温かい泉への幻想。/赤ん坊が狭い産道を通ってこの世に生まれてくるのは相当な苦痛であるらしいけど、こういう秘湯に辿りつくまでの道のりもある程度険しい方がよい、と思われてるような気がする。/その険しい道のりを超えて、そして膝を丸めて浸かるのだ。あたたかい水に。/この幻想を支えているのも胎内回帰願望なんだろう。(「深い山の奥のぬるい水」)


等身大の約束

この考察も面白いものだが、こういう視座で世間を見渡せば、世の中は子宮的構造に溢れていることが分かるだろう――私に言わせれば、世の中は子宮的構造でできていて、それに反したものは、えてして気分が悪い、ということになる。インターネットでさえ、へその緒のつながる先としてのでっかい子宮でしかない。

私たちの子宮的なモノへの憧れは強い。それはある意味当然であって、人間も宇宙の法則に従うというとでしかない。それはけっして大げさなものではなく、私たちの身体に宿る――私たちはそこで人間の身体を纏った――等身大の約束としてである。

なぜ私は今ここにいるのだろう、という問いは、そのことをあからさまにしているはずなのだが、多くはそのことに自覚がない。なぜなら人間は、その頃の記憶を、脳の奥深くにしまいこんでしまっているからだ。そのしまいこんでしまったモノ――つまり無意識を呼び起こすための思考の方法として、「子宮的構造」を私は使っている。