午前8時起床。郡山は晴れ。
つっこみ力
話題の新書『つっこみ力』を読む。
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パオロ・マッツァリーノ |
陰気な学問
北海道大学の山岸俊男教授は、社会学は陰気な学問だと言う――酒の上の話だけれども――。この『つっこみ力』という本は、その陰気な社会学に、「つっこみ」という「芸」を加えることで、(社会学のもつ)陰気さを打ち消そうという主張である。
それは(私にとては)特別目新しいものではない。例えば、私が講演用のPPTに凝ったり、(講演に)音楽をつかったり、工作を取り入れたり、そして何故に浅草に棲み、落語や芸人の世界を勉強してきたのかと言えば、たぶん『つっこみ力』と同じようなことを試みているからだ。それは陰気さの打ち消しでしかない。
複雑性の縮減
陰気さというのは、わかりにくいということである。テクストは基本的に陰気である。(陰気な学問である)社会学的視座をもつテクストなら、陰気さは相乗効果的に高まる。そのためテクストは更なる説明を試み、そのことで、わかりにくさはスパイラル的に高まる――私のブログはわかりにくいと言われている(た?)――。
一方、講演は少なからず「芸」が混じる。そのことで、コミュニケーションの複雑性の縮減を図ることが可能なのである。これは「現場状況報告」における、音楽+視覚化で実証済みである。プレゼンテーションとは、複雑性の縮減を目指した芸である。そして『つっこみ力』が、講演(公演)の記録というスタイルを持って書かれているのはこのため(複雑性の縮減のため)である。
陰気さも好きだ
しかし最近の私は陰気さも好む。勉強会ではPPTを使わなくなり、ホワイトボードに書き込むかたちを(最近は)好んでやる。『つっこみ力』では「わかりやすけりゃいいってもんじゃないだろう」を否定しているけれども、私は「わかりやすけりゃいいってもんじゃないだろう」派なのである。
分かりやすいほうがよい、というのは、わかりやすく説明すれば、相手がわかることを前提にしている。しかし私はそんなことはないと考えている。なぜなら私自身がよくわかってはいないからだ。
「わからない」という方法
私自身がわからなければ、〈他者〉にわかりやすく説明できることはない――それが定義だとすれば、私はわからないことばかりなのであるから、わかりやすく説明することなどできない。
ではそういう私は何を講演で〈他者〉に伝えようとしているというのか。
それは「わからない」ことを「わからない」と自覚して、それでも少しでもわかってみようと努力すること(若しくはその手法と過程)でしかない。それを橋本治は『「わからない」という方法』と呼んだのである。
わかるということ
複雑性は縮減されればいいってもんじゃない。問題はその主体である。〈他者〉の行った複雑性の縮減をそのまま受け入れても、それは身体的にわかったことにはならない。複雑性の縮減は――〈他者〉の手を借りたとしても――最終的には〈私〉自身が行う。そのことで、それはわかったことになる。