自由はどこまで可能か

自由はどこまで可能か

『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門』

森村進(著)
2001年2月20日
講談社現代新書
756円(税込)


東京から考える

この本は、1年程前に既読のものだが、今になってまた引っ張り出しているのは、先に紹介した「東京から考える。(東浩紀・北田暁大)」で参照されていたからで、そこには「なるほど」と思うところがあったのだ。

東 世代的再生産がなければ、人間社会の設計は簡単だと思うんですけどね。

北田 時間的要素を考えずに、この利害調整問題として処理していけばいいからね。

東 それこそ、経済合理性だけでいけるような気がする。森村進さんが『自由はどこまで可能か』で書かれていますが、リバタリアニズムのひとつの弱点が遺産ですね。

北田 弱点というか、ハードプロブレムですね。  (引用:『東京から考える』:p244)

縦の関係

つまり、わたしたちは、わたしたちの棲む社会をどう設計するのか――それは政治的であり、経済的であり――を(大なり小なり)考えているのだが、「世代的再生産がなければ、人間社会の設計は簡単」なのである。それは横の関係だけで、今いる個人の利害関係だけを考えればよいのであって、「経済合理性だけで設計できるだろう」という東の意見はもっともなのである――これを小泉は強調し、多くの国民は同調した。

ここで東がいう「世代的再生産」とは生殖のことであり、世代、歴史といった「時間的要素」(つまりパトリだ)を考えるということである。私たちは生物である以上、このシステムを超えることはできない。つまり私たちはなにものからも自由なはずの個人かもしれないが、親子関係-世代という縦の関係からは逃れることはできない。そこには必ず契約関係だけでは割り切れないものが生まれてくる、それもESS的に、自生的にである。

それは共同体性やネイションにもつながる人間の組織がつくる不思議な特性であり、それは契約関係で割り切れない面倒くささをいつも孕んでいる。このことは、私がずっと感じてきてことでもあって、私がなぜITに惹かれたのかといえば、組織(コミュニケーション)における血行不良のようなものは、ITでフィルタリングすることで解決可能じゃないのか、という単純なものであたし、いってみればそれは、共同体性を保ちながら、個人の自由をどう保障し得るのか、という問題なのだけれど、もちろんそれは今でも解決できていない。(笑) 

リバタリアニズム

リバタリアンである森村進は次のようにいう。

リバタリアンが求めるべきなのは、形成において自生的な秩序よりも、内容において自由な秩序である。成立過程よりも、その制度が人々の自由を尊重するか、それとも集団的決定を押しつけるかの方が重要なのである。集団主義者はしばしばこの選択を無計画と計画の間の選択として提示するが、この表現は間違っている。なぜならば個々人の自由を尊重するとは、個々人の計画設計を尊重することで、集団が計画することは、個々人に対して集団的計画をおしつけることだからである。 (引用:森村進:『自由はどこまで可能か』:p189)

森村ぐらい徹底したリバタリアンだと、その意見は読んでいて気持ちがよいぐらいなのだが、これがリバタリアニズムの基本的主張であろう。つまり森村のいう「形成において自主的な秩序」というものは、共同体がESSに生み出す秩序である――例えば、浅草は利己的な街であるが故に利他的なのである、というのも形成において自主的な秩序である――。そしてリバタリアニズムはそれを否定する――つまり共同体性を否定する。

人間工学的

リバタリアンは自由主義経済――市場原理を絶対視する。つまり経済活動(資本の運動)は自然であるほうがよいとしているわけだが、こと資本の運動以外は自然発生的なものをよしとはしないのである。それはESS的なもの、生物的なものの否定であり、個人の計画性を強調することで人間工学的なものとなる。

リバタリアニズムたぶんその考え方は、北田のいうように「ハードプロブレム」を()カッコにしまいこんだものでしかないのだろうが、社会は『東京から考える』が指摘しているように、人間工学的に進化している。より個人が生活するのに快適な環境としてかたちづくられてきているだろう。郊外化、マクドナルド化、ジャスコ化なんていうのもこの文脈で動いている。つまりリバタリアニズムのOS化は、資本に軸足を置いた環境から、確実に進んでいるということだろう。