デヴィッド・ハーヴェイ(著) |
新自由主義(ネオリベラリズム)
新自由主義とは、「市場の公平性」こそが「倫理」であり、国家、社会の機能のすべて、人間の行為のすべてを導くことができる指針である、という教義である。1970年代以降、小さな政府・民営化・規制緩和・市場の自由化などを旗印にして、先進国から途上国までグローバルに浸透していき、思想的にも現実的にも21世紀世界を支配するものとなった。/では新自由主義とは、どうして発生し、どのように各国政府に取り入れられ、いかに各国民の同意をも取りつけていったのか? それは誰によって、誰のために推し進められてきたのか? そして世界をいかなるものに再編しているのか? 本書は、世界を舞台にした40年にわたり政治経済史を追いながら、その構造的メカニズム、その全貌と本質を明らかにするものである。(『新自由主義―その歴史的展開と現在』:帯書き)
この本は、読んでいて脳みそが痺れるような疲労感(けれども心地好い)を感じた。ハーヴェイの論考は、ネオリベラリズムが如何にして人々の支持を得ていったのかを、時間軸に沿って歴史的に分析していく。それは小説を読むような面白さがある。
そして読み進めていくうちに、新自由主義とはどのような思想であり、その思想が孕む矛盾や、どのような問題を生み出すのかもあきらかになっていく――特に新保守主義の台頭とその必然性は目から鱗であった。
渡辺治の論考
さらに本書には、監訳者である渡辺治の論考「日本の新自由主義――ハーヴェイ『新自由主義』に寄せて」が収録されている。それが素晴らしい、一読に値する、とはこういうものをいうのだろう。
最後に、日本の新自由主義の帰結の特殊性にふれておきたい。それは、日本では新自由主義改革がヨーロッパ各国の新自由主義の帰結に比べて、はるかに深刻な社会統合の解体と社会の分裂をもたらしている、という点である。日本では新自由主義の社会への打撃がはるかに大きいのである。(渡辺治:「日本の新自由主義」:p327)
まさにそうなのだ、と(私は)思う。ではなぜ日本においては「はるかに深刻な社会統合の解体と社会の分裂をもたらしている」のか。
それは「開発主義」という戦後日本がとってきた政治経済政策の特殊性にある――というのが私の主張でしかない。(だからこそ、新自由主義へのオルタナティブでありつづようとしてきた)。
この論考は、〈開発主義/新自由主義〉という対立軸を押さえ――つまり、談合が悪いとか、官僚や政治家が悪い、とかじゃなく、まともに〈開発主義/新自由主義〉というバイナリーを、システムとして論じている。こようなものには初めてであった(ような気がする)。
開発主義も新自由主義も資本主義の一形態である。新自由主義の対立軸には社会主義を置く傾向があるのだが、そのことで、新自由主義は延命してきた。(社会主義は崩壊した)。
しかしこの対立軸で戦後日本社会は捉えることはできない。なぜなら日本は社会主義の国であったことなど一度もないからだ。今我々が直面している危機とは、資本主義内の対立として考えなくてはならない。
ということで、今朝は、たまにはこういう本も読みなさいよ! といっておしまいなのである。
追記: 小泉さんと安倍さん
上記、「渡辺治の論考」で引用した「はるかに深刻な社会統合の解体と社会の分裂」とは、本来、開発主義的政党であった自民党が、小泉純一郎によって、すっかり新自由主義になってしまったことで、地方や都市部自営業者は、指示する政党を失った――政治的な拠り所を失ったということだ。自民党の集票力が衰退していること。
しかし安倍晋三は、じつは新自由主義者というよりも(その反動から生まれた)新保守主義者なのであって(新自由主義的な経済政策は竹中-小泉路線継承で大田弘子に丸投げ状態)、本当はパトリの護持に向かう可能性があったのだ――自民党は小泉以前に戻るのだろうか―地方活性化に重点=自民が統一選公約。
しかしそれが今や、「安倍内閣支持率急落」なのである。はるかに深刻な社会統合の解体と社会の分裂はどこまで続くのだろうか。