午前5時40分起床。浅草は晴れ。
このエントリーは、先に書いた「『新自由主義―その歴史的展開と現在』。(デヴィッド・ハーヴェイ)」の関連(つづき)として書く。それは北海道のA木さんから、次のようなコメントをmixiにいただいていからで――つまりは返信である。
社会的不確実性が極限に達したとき、わが国はどうなるのでしょうか?○クザ屋さんやはみ出し者が一般市民に牙を剥き、全国津々浦々、災害と犯罪のマチになるかもしれません。「だから、談合を認めろ!」と言っても、誰も聞いてくれません。
まずは、大林組関連の記事の引用から。
【人事】「法令順守しなければつぶれるという危機感が足りなかった」、談合で社長辞任の大林組が会見(KEN-Platz)
──談合事件をたびたび起こす体質をどのように考えるか。
大林会長「当社だけでなく建設業界についていえることだが、法令を順守しなければ会社はつぶれるという危機感がいままでは足りなかった。当社には大手だからつぶれるはずがないという意識もあった」。
白石専務「しかし今後は、法令順守を徹底しなければ大林組は企業として存続できない」。
〈開発主義/新自由主義〉
先に紹介した、渡辺治の〈開発主義/新自由主義〉という二項区分(バイナリー)は、上の大林組経営陣のことばを、理解しやすくしてくれるだろう、と思う。
つまり、開発主義においては、強い行政を中心とした、政治・行政・財界の鉄のトライアングルという円環(ムラ社会)にある掟こそが守るべきもの(社会統合の装置)であった。(それは法令でなくともよい)。
しかし、開発主義的なものを解体し、その上で日本を再構築しようとしている新自由主義(ネオリベラリズム)は、(伝統的な)ムラ社会(共同体性)を破壊することによって失われる掟(安心のシステム)に替わる、新たな秩序の導入をはかる必要性がある。(さもなければ北海道のA木さんのいうように、社会は無秩序化してしまうだろう)。
その新たな秩序が「法令順守」――つまりは司法部門の強化、ということだ。法律違反はがんがんと取り締まる。大岡裁きは既に死語――それが今という時代の特徴だろう。
裁判への市民の参加や法律扶助の強化、弁護士の大増員――これらは当然に米国に倣ったものだが、日本が新自由主義を導入する過程で導入しようとしてきたものだ。
機能等価
それは私から言わせれば機能等価でしかないのであって、つまり談合も法令順守もたいしてかわらない。それらはどちらも社会が安定するために守るべき掟にしかすぎない。ただ違うのは、それが機能する領域であって、〈狭い/広い〉、〈ローカル/グローバル〉の違いはあり、それが決定的な差異を生み出している――私達は談合する自由を失ってしまっている。
これは例えば、Suicaによって駅の改札業務は楽になっ
たけれども、ある方々は、キセル する〈自由〉を失った、というこ と。例えば、独禁法や、談合防止 法によって、談合する〈自由〉を 失った方々もいる、ということに 似ている。 しかしいくらそのような〈自由〉
を主張したところで、「それは法 律違反だ」といわれるだけだろう 。法律は、われわれ人間が外部に つくった、互恵的利他性の(仲良 く暮らすための)装置のようなも のであるが、それは必ず失うもの をつくる。 その多くは個人の利己的な〈自由
〉であるが故に、かつてその利己 性を封じ込めてきた共同体性の破 壊に収斂してしまう。 (ZIPPOが機内持ち込みできなかったこと。若しくは、失われる〈自由〉について。)
国民的同意
つまり、なぜ、談合はだめで、法令順守なのかといえば、それは開発主義(官僚主義)はだめで、新自由主義(日本の場合、それは、反国家主義であり、反官僚主義であり、個人主義と根底で結びついていることで、モダニズム的でもある)はOKよ、という国民的同意(コンセンササス)が出来上がってしまっているからだ。(小泉さんのおかげです)。
それはかなり複雑に絡み合っていることで、当事者さえもなんだかよくわからない大きな動きになってしまっている。(たぶん、反国家主義であり、反官僚主義であり、個人主義であるご本人も、なぜ自分が小泉さんを支持したのかなんてよく考えたこともないだろう)。
嫉妬に勝てる戦略はない
それを下支えしているのは、嫉妬のような感情じゃないのかな、と(私は)思う。私はまじめに働いても貯金もできやしないのに、あいつら(政・官・民すべてを含めた公共事業という産業のことだよ)楽して儲けやがって、と、私もやりたいぞ、と。(笑)
そして今やそれは、大いなる勘違いでしかなのだけれども、度重なる官製談合の摘発は、それを払拭する隙もつくってくれやしない。
なのでこれ(ネオリベラリズム)は、かなり強烈な教義として機能してしまっているのであって(嫉妬に勝てる戦略はない)、まあ逆らっても、無駄だろう。
ただこんな詐欺みたいなものを放置しておいていいわけはないので、(私は)とりあえずは大きな流れの中で流れて、それ以上のスピードで流れることで独自性を保つ、という戦略をとるしかないわけだ→パトリの護持と普遍経済学的世界観をもってね。やがてそれが新自由主義のオルタナティブとなれるようにね。