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コンプライアンスと法令遵守。『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(郷原信郎)

午前5時30分起床。浅草はくもり。

「法令遵守」が日本を滅ぼす

「法令遵守」が日本を滅ぼす

郷原信郎(著)
2007年1月20日
新潮新書
680円+税


この本は、昨日、ひできさんから送られてきたものだ。彼の本書の書評である「日本は果たして法治国家だろうか。」は、「世界最後の社会主義国家? 野口悠紀雄の『戦時体制未だに終わらず:史上かつてない平等社会』という欺瞞。」へトラックバックしていただいていた。

私はこれをひできさんからの贈与として受け取った(純粋贈与ではない)――なので見返りとして読書感想文を書くことにしたわけだ。(贈与的お返しとしては少々早すぎるが)。

法令遵守とコンプライアンスとは違うものであること

まず私のコンプライアンスの考え方を書いておこう――それは法令遵守とコンプライアンスとは違うものだ、と要約できる。

私はパトリを擁護する。そしてそれが機能する社会や組織を中景とか種と呼ぶのだが、中景(種)が機能している社会や組織には法令遵守はいらない。なぜなら中景(種)が機能している社会ではコンプライアンスが機能しているからだ。

中景が機能していれば、法令は十七条憲法(聖徳太子)――つまりはモラルで十分なのである。(誇張あり)。

しかし市場原理が中景(パトリ)を破壊するとともに、守るべき掟とその監視装置(社会統合の装置)がなくなることで、機能等価的に法令を外部装置として準備し、法令遵守を言わなくてはならなくなってしまている――その社会的コストは非常に高いのにだ。

そしてその中景破壊装置こそが「交換の原理」であり、ネオリベ(新自由主義)であることは〈「法令順守しなければつぶれるという危機感が足りなかった」と今更言うか、ふつう。〉に書いた。

つまり、開発主義においては、強い行政を中心とした、政治・行政・財界の鉄のトライアングルという円環(ムラ社会)にあるこそが守るべきもの(社会統合の装置)であった。(それは法令でなくともよい)。/しかし、開発主義的なものを解体し、その上で日本を再構築しようとしている新自由主義(ネオリベラリズム)は、(伝統的な)ムラ社会(共同体性)を破壊することによって失われる掟(安心のシステム)に替わる、新たな秩序の導入をはかる必要性がある。

経営=環境×原理

さて本書の著者である郷原信郎氏は、そんなところに気付いてしまい、それに真っ向から言及を試みている稀な法学者(?)だ、といえるだろう。本書を一読して感じたのは、この方は私と思考的に同根であるな、ということだ。(あまりにも一緒過ぎるので、読書としては退屈であった)。

企業活動は、需要を通じて社会のニーズに応えるものでなければいけません。企業活動を取り巻く環境には様々な要素があり、それぞれの要素について法令が定められています。個々の法令の規定を遵守するだけでは、環境全体に適応することはできません。法令は、環境の変化を知る手がかりとして重要なのです。(p174)

これは、桃組で使う経営の定理、経営=環境×原理のことだ。つまり郷原先生は環境と原理を知る手がかりとして「法令」を使っている、といっている。

私は「法令」ではなく、「IT」をその手がかりとしているけれども、「法令」も「IT」も今という時代を支配するイデオロギーの手先(としての環境)でしかないことで、環境を観察する者は、自ずと同じような問題にぶちあたる、ということだろう。

本書の主張は2つある(と思う)。

  1. ネオリベ的(思考停止としての)法令遵守批判
  2. 組織としての種の論理(にあるコンプライアンス)

法令遵守批判

これは『桃論』でいう「正解の思い込み」のことである。本書の帯にあるキャッチにそれは要約されているだろう。

企業コンプライアンス確立のためにコストをかけることは、今や経営の常識です。関連セミナーが各地で開かれ、コンサルティング会社は大盛況です。/こうしうて世の中が「法令遵守」に席巻されるなか、賢明な組織人であれば、コンプライアンス=法令遵守という考え方こそが組織をダメにしていることを実感しているはずです。/「そんなはずはない!」と信じている多くの方々に敢えて申し上げます。あなたの法令遵守原理主義そのものが元凶なのです。

そう、これは公共事業という産業がいつか通って来た道なのである――公共事業におけるISO9000’のこと。それはISOが悪いといっているのではない、それで全てが解決できるという思い込み――原理主義的行動は、一見まじめな行為のように写るかもしれないが、それにハマり込めば込むほど、環境変化は見えなくなる、ということだ。

「if 」を持たない人ほど、結果的には失敗していくのは世の常でしかない。

そして(2)の「種の論理(にあるコンプライアンス)」は「フルセット・コンプライアンス」という郷原先生の概念に収斂する。

フルセット・コンプライアンス

  1. 社会的要請を的確に把握し、その要請に応えていくための組織としての方針を具体的に明らかにすること。
  2. その方針に従いバランスよく応えていくための組織体制を構築すること。
  3. 組織算体を方針実現に向けて機能させていくこと。
  4. 方針に反する行為が行われた事実が明らかになったりその疑いが生じたりしたときに、原因を究明して再発を防止うすること。
  5. 法令と実態とが乖離しやすい日本で必要なのが、一つの組織だけで社会的要請に応えさせようとしても困難な事情、つまり組織が活動する環境自体に問題がある場合に、そのような環境を改めていくこと。(p152)

これを簡単に言ってしまえば、「法令遵守<モラル+情報発信」ということであって(組織論的にはまったく正しいと私は思う)、それは既に桃組がIT化において取り組んできたことなのである。

  • まずイントラネットを使って種的(中景としての閉じた)組織をつくる――企業・協会・団体。(個は種のミームの中で育ち、また種は個の変化によるミームの変化を内包している――種の論理)。
  • その上でその閉じを情報発信することで外部に向かって開く(メビウスの1/2×2モデル)――ことで1社だけでは解決できない環境の問題を、協会・団体ベースで(情報を発信することで)改めていこうとすること。

情報を発信しないことは淘汰につながる時代

ここで一番重要なのは当然に(5)――「つまり組織が活動する環境自体に問題がある場合に、そのような環境を改めていくこと」なのである。しかしこれが一番難しいことは、我々(桃組)は身をもって経験してきた。

  • 環境とは、ぶれない軸としての大衆(別名「象徴の貧困」)なのである。(含むマスコミ)
  • 環境を改めるには、まず自らが動き出す(情報を発信する)するしかないのだが、環境に押しつぶされるものたちは、なぜかそれができない――できないからこそ押しつぶされる、ともいえる。

例えば郷原先生は、独禁法による初の入札談合摘発である「静岡事件」をこう書いている。

(静岡事件では)全国紙が反談合キャンペーンを展開し、国民は、政治・行政と業者との癒着・腐敗に結びつく談合に憤慨しました。建設業界は、公共事業をめぐる談合に独禁法を適用することに反発しつつも、その談合が果たしていた機能については全く説明しようとしませんでした。(p43-44)

このとき真相はうやむやになり談合は延命した(二度と浮き上がってこないように錨をつけて海中に沈められた)はずだったのだが、その後の『米国の対日要求という嵐の中で錨が外れ、にわかに海中から浮かび上がってきたのです』(p44-45)。

しかし公共事業という産業は、談合が果たしてきた機能を情報発信してこなかったし、繰り返される談合摘発においても、だんまりを続けているわけで、情報発信をしないことのツケとして、完全に逃げ場を失ってしまっている(淘汰――進化的に失敗している)、ということだ。

ということで、本書は、是非公共事業という産業に従事される方々にこそ読んでもらいたい、と思う。そして情報を発信することの必要性に気付かれたら、自ら情報を発信する(目的と理念・哲学をもって)、ということを始めてみてほしい。(まだ諦めるには早すぎる)。

しかしだ、また書くけれども、法令遵守原理主義でも十分に生きていけるのもたしかなのね……時給は850円なんだけれどもね。w

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法令遵守でわが社は滅びるか?(笑)

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