午前5時起床。浅草はくもり。
このエントリーは村山に向かう山形新幹線の車中で書いている。(投稿は村山に着いてからだろう)。
ニートの潜在力
車中、ダカーポに連載されている中沢新一のコラム『仕事は芸術』を読む。今回のお題は「ニートの潜在力に注目」というものだ。
- ひきこもりやニートの若者たちの深層で働いている感覚は日本文明の特質と深く結びついている。
- その原理とは「日本人の文明とは情緒に基づいている」ということが大きい。
- 日本人のメンタリティというのは、自然を敵対する相手、支配する対象としてとらえない。
→海、山、森、川など自然とバランスを取りながら、動物や植物と一緒になって生活環境をつくってきた。
→まわりの環境に対して、「アクティブ」ではなく「パッシブ」。「ポジティブ」ではなく「ネガティブ(控えめ)」にふるまう。 - 環境やまわりのものに対して、「なにかよいものを引き出してくるためには、受動的な態度をとる必要がある」ということを知っている。
つまり中沢新一は、ニートや引きこもりの人達がこれらのメンタリティをもっていて、それゆえに、これからの時代に大切な可能性を秘めた存在ではないか、という。
労働のシステムに入っていかない若者たちは、当然ながら、経済的にも社会的にも負け組になってしまう。けれども、いわゆる「勝ち組」の人たちが幸せかというと、そうでもない。日本人は自分たちの感覚にあった仕事のしかたを、根本的に考え直す時期にきているんです。(p89)
否定的受容
古くは中国から、近代以降は西洋、そして戦後派アメリカから、文化や技術を取り入れながらも、精神面では距離を保ってきました。「和魂漢才」「和魂洋才」という言葉があらわしているように、都合のいいところだけ外から取り入れて、魂は変わらない。それでいいんです。それがいいんです。魂の部分は「和」のままで、21世紀の和魂洋才にバーションアップすることが求められている。(p89)
これは「否定的受容」という日本文化(日本語)の成り立ちそのものなのだが、それをニートや引きこもりの根底に中沢新一は見出している。私はそれがどの程度説得力を持つのかはしならいが、まあ、こんなことは中沢新一しか書けないだろうな、と思う。
そしてそれは我々の戦略とたいしてかわらないものであることもじじつだ。
とりあえずはこの巨大な動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保っていくことが一つの方法になるかもしれない。(川俣正:『アートレス―マイノリティとしての現代美術
』:p45)
しかしこのニートやひきこもりの人達たちが、積極的にこの戦略をとるとも思えない。最後の中沢の言葉がその面倒さを言い表しているだろう。
つまり、好きなだけ内側にひきこもっていられるように、先手を打っておくことが重要なんだろうと思います。もっと戦略的に「ポジティブなひきこもり」であることがもとめられているんです。
まあ、私の経験からすれば、ポジティブになれないからこそ、ひきこもっている、としか思えないのだが……・。
(編集中)