K氏の大阪弁ブンガク論K氏の大阪弁ブンガク論


K氏の大阪弁ブンガク論

午前5時30分起床。浅草は雨。あたしは標準語のようなものでしか文章を書けないひとである。つまり大阪弁というのは、聞けばわかるけれど(だいたいだが)、文章には出来ないひとなのだ。あたしが生まれた処は大阪に近いが大阪弁ではなく、育ったところは大坂から遠くはなれている。

そう、あたしには大阪の血は無い。

そういうあたしに届いた『K氏の大阪弁ブンガク論』は、まるで、江弘毅が書いた「おとぎ話」だ。あたしにとって、江弘毅は異国の物書きにしか思えない、と同様に大阪という土地もまた異国なのだしUSJなのだ。

それは、江弘毅が「大阪」という非常に狭く、かつ永く独特の歴史を持った土地を背景に生きてきた人達の末裔だからで、ただ「独特」と書くと怒られるのかもしれない。たぶん彼らが日本の中心なのだから至極当然の事なのだ。

標準語があっての『大阪弁ブンガク論』

その大阪生まれの江弘毅が大阪弁について書く。この大阪弁は、標準語とバイナリコードで対立している言葉としての大阪弁である。だから要は博多弁でも津軽弁でも同じに思える。

『K氏の大阪弁ブンガク論』は、大阪弁を絶賛しているけれど、何時もどこかで標準語を捉えている。逆に云えば、標準語を話す人もどこかでネイティブな自分達の言語を使っているはずだと云える。だけど、そのネイティブな自分達の言語の中でも、一番メジャーなのが大阪弁なのだ。

そういう意味では、大阪で生まれ育った江弘毅は得しているなーと思う。日本には、大阪で生まれて育ちたかった人間が300万人はいるはずなので(根拠無し)、大阪以外の人達にも指示は得られるだろう。

さらに、ちょっと間違えば形而上学になりがちな話を、「k氏」というペルソナの存在ではぐらかし、そのはぐらかしさ加減を(江弘毅の本来の)「おもしろさ」が救う。しかし、そんなことより、文章の流れがとてもいい。

淀みがないではないか。

江弘毅もやるもんだ。成る程、これが大阪弁の効果なのかと思う。自分の持っているネイティブな言葉で書いても、あたしはこうはいくまい。しかし、あたしゃ大阪弁は書けないのであるな。