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「Googleのティッピング・ポイント(分岐点)―信頼は得るのは難しく、失うのは簡単。」に対して、ひできさんから、トラックバックをいただいた――[書評]ティッピングポイント 。
紹介されている『ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか』という本は、興味深いので早速発注した(中古本だけれども)。
ティッピング・ポイント
「ティッピング・ポイント」のはてなのページを読むと、「感染」や「ウイルス」ということばが並ぶ。
では、「感染」はなぜ起こるのか。本書は3つの要素を挙げる。「感染」を広げる少数者の存在、「ウィルス」の特徴、それが作用する環境である。とくに、口コミによる伝播の役割を担う人々の具体像を明らかにした点が興味深い。いわゆる口コミによるブレイクの謎解きを行ったものとして、実に刺激的な論考である。
つまりこれは、ミーム論なのだなと気づく人は気づくだろ――ある人は、マルクスのいうような、量から質への変化、を思い浮かべるかもしれないが。(笑)
私は公共事業の危機を語るのに、ミーム概念を用いてきた――つまり『桃論』だ。それは、公共工事に対する批判的な意見が、流行もしくは社会的行動が、敷居を越えて一気に流れ出し、野火のように広がる劇的瞬間を感じたからに他ならない。
しかし、なぜテッピンング・ポイントが起こるのかは、進化のアルゴリズムが、なぜその円環的運動を切る瞬間(進化の可能性)を孕むのかと同様によくわからない――それを私はずっと考えてきたつもりだ。
キアスム
せいぜい私のできることといえば、テッピンングポイントは、キアスムの交点と似ているな、と理解することぐらいである。
キアスム的な転換にはふたつあると(私は)思う。
ひとつは、自らひねること。
ひとつは、自らの意思と関係なくひねられてしまうこと。
骰子一擲
現実はこのふたつの相互作用のハイブリッドなのだろうが、だからこそ現実は偶然を孕む――自らの意思ではどうにもならないような現実を、全人格をかけて受け入れなくてはならない。それを(私は)、マラルメの『骰子一擲』に重ねてきた。骰子一擲 いかで偶然を破棄すべき、と。
しかし偶然は破棄できない。ただ、
それを聖別するある終極点
に停止するまえに
全思考は出発する骰子一擲を
(ステファヌ・マラルメ:「骰子一擲」)
これを信じ、考えることをやめなかった(つもりだ)。つまり、キアスム交差は、今この時も起きている。そして(私は)偶然を破棄するために、自らのひねりをやめない(つもりだ)。しかし偶然はずっと破棄できないままだろう――つまり私はどこかでひねられてしまう。
テッピング・ポイントは、そんな小さな骰子一擲の集積なのだろうか。