06050101s.jpgこのサイトのタイトル部分に使っている画像の素はこれです。

トポロジー

これが、なにものであるか、については、「法大EC用メモ―知覚とひねり」で書きましたが、灰色の濃淡とは日本文化のトポロジカルな表現です。つまり、灰色の濃淡は、上下を逆さまにしてみれば、同じものでさえ、違うように見せてしまう、ということです。


つまり、この二つの円は、トポロジー的には同じものです。下図を借りれば、トポロジー的には「a」=「b」であって、「c」ではありません――実際にはこの灰色の濃淡は「c」です(お間違えなきよう)――。つまり凸と凹が逆に見えるだけで、根本的な変化は起きてはいません。  

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それでも上下を逆にするだけで、凸と凹は逆に見えるのです。つまり、上下逆さまのような、ちょっとした変化は、トポロジー的には同じであり、本質的部分の変化ではありません。私たちは、この目先の変化=変化という感覚に慣れきっています。

象徴の一部否定

「考える技術」の中枢にある「象徴の一部否定」は、トポロジーを壊すものではありません――。建設業の場合、トポロジー変化とは、転業か廃業を意味してしまいます。

日本のマネジメントシステムは、鎖国時代に生まれた(欧米から観れば非合理な)日本文化を基底にしています。そこに欧米流の合理を上書きすることで――非合理の上に合理を上書きしている――トポロジーの崩壊を防いできました。

この灰色のトポロジーは、まるで織物のようなものです。同じ縦糸に横糸で柄の変化をつけるように――織物の縦糸はずっと同じものなのです。違うのは横糸だけです――縦糸、つまり基底は変わらない、と誰しもが思っていたはずです。その縦糸こそが、灰色の濃淡であり 白と黒の中間色としてのハイブリッドな思考方法です。

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つまり、それはバイロジックです。バイロジックは、それ自体が「ひねり」の構造を持っています(トポロジー「c」)。これが日本人――日本語で考える人々――の持っている縦糸だと私は考えています。

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小泉政権によるトポロジー破壊

しかし、小泉純一郎という人は違っていました。彼が云う"ぶちこわす"戦略に、我々が勝てなかったのは、"ぶちこわす"が、トポロジー変化ではないだろう、と高を括っていたせいなのだと考えています。つまり多くの方々は、縦糸は変わらない、と考えていたはずです――彼の行った戦略は、トポロジー「c」を「a」にしようとするものだと解釈しています――。

このトポロジーが崩れるのは、歴史的にみれば、往々にして、外圧に対して肩を並べようと無理をするときなのですが、今と云う時代は、そのような時代なのかもしれません――それをグローバリゼーションと呼ぶのでしょうが――。

地方の建設業、協会は、今、そのトポロジカルな変化への対応に苦労をしています。そのトポロジー変化に自らが適応しようとするなら、自らも"ぶちこす"戦略――つまり根本的な自己否定――をしなくてはならないのですが、それは転業が廃業を意味します。

トポロジー変化の端的なものは、ナイーブな市場原理の導入です。しかし、陳腐な例えかもしれませんが、耐震強度偽装事件や、シンドラーの事件は、安くて良いものなどないことを、"安物買いの銭失い"という諺が、今でも生きていることを証明してくれたのだと思います。

公共事業が、安物買いの銭失いになる、などということは、本末転倒でしかありません。結局は、税金が無駄に使われるだけです。しかしそれは、現実に起きています。ナイーブな市場原理の(急激な)導入は、トポロジーを壊すことで、コスト高の割には、得るものの少ない政策である、と考えています。

公共事業と云う産業は自ら情報を発信せよ!

しかし最大の問題は、公共事業と云う産業が、市場原理に代わるアカンタビリティを、自ら提案できないままであることだ、と私は考えています。

市場原理をナイーブに受け入れる、と云うのは、公共事業という産業にとって、横糸ではなく、縦糸の変化であり、絹がナイロンに変わるようなものです。

昨今、建設業の新分野進出等というものが、遠慮しがちに、しかし多くの地方治自体では唯一の建設産業政策として推進されていますが、これ等は、役人のイマジネーション不足を自ら証明しているとしか思えません。"ひねり"がありません。縦糸が縺れています。多くの行政は、使えるお金が減る中で、「考える技術」が機能していないことを露呈させています。

業者数の削減を、政策的に本気でやるのであるならば、明治維新の廃藩置県の際に、武士――彼らの多くは廃業に追い込まれたわけです――に一時金を拠出したように、経営者の個人保証の免除までを視野に入れた資金の拠出等、建設業から撤退しやすい政策をとるべきだ、と私は考えています。今のままでは、真綿で首をしめているようなものでしょう。

であれば、どうしたらよいのか、ということでしょうが、私の答えは、自らの機能について自己言及することでしかない、ということです。公共事業という産業――つまり行政も含めて――はもう一度、自らの機能について考えてみるべきでしょう。

以上、これから書く「法大EC第3回講座」の反省と次回講座の補足として書きました。