水戸の長谷川さんから、丸干しいもを沢山いただいた。
ありがとうございます。
これは桃組新年会常連の方はたべたことがあるだろう。ほんとうにうまい。
干しいもなのだが硬くない。しっとりとしていて、歯にまとわりつくような食感である。
その自然のつくりだした甘みは、どこかで日向のにおいがする。それは口いっぱいに広がる太陽の無限小であることで心地よい。
私は丸干しいもをみるといつも、しまつということばを思い出す。
ふつうに売られている干しいもは、平らにカットされている。しかしこれは、(もともとは)平らにカットすることもできなかった――つまり商品にならないような、小ぶりの芋の皮を剥き、干したものだ。
最近、好んで料理をするようになって思うのは、どんな食材でも、最後までちゃんと使ってあげることが大事だな、というとだ。
ちゃんと使えば、ちゃんとおいしいものになる。
それは、自然という純粋贈与に対する、わたしたちのできる贈与(お返し)のようなもだろう。
そしてそこにこそ純生産(おいしいもの)は生まれる。
丸干し芋は純生産である。
それはしまつとしての贈与の産物だ。
商品にならないよな芋に手をかけてやること。
それは(もともとは)経済活動――交換の原理を意識することのない、ただ自然に対する贈与である。
その結果として生まれてきたのが、この丸干しいもだと(私は)思う。それがたまたま経済活動――交換の原理にのれば、商品となる。(三位一体モデルと農業の三位一体モデル。)
大切なのはしまつのこころである――しかし消費は、私たちのこころから、それを忘却させてしまっている。