午前7時20分起床。浅草はくもり。

よりよい自分をつねに求めるという向上心は、実のところ高次の欲望であり、それを持続できるかどうかは自明ではない。

この昇華されたリビドーである高次の欲望のことをスティグレールは「象徴的なもの」と呼ぶのだが、それは育み、培わねばならないものなのだ。


ところがその教養のための時間を、目先の利益のみを追求する現代のハイパーインダストリアル社会は、構造的に破壊してしまう。

技術は発展していくのに、「私」や「われわれ」を向上させたいという動機付けの方が失われていくのである。

なぜなら、目下、感性や認知に関わる最先端の技術のほとんどは、すぐに結論を出そうと急ぐ意識の怠慢さを助長させ、人々の行動を画一化する方向で専ら使われているからである。

象徴の貧困、パトリの衰退、欲望の喪失

さて、上記のテクストは私のものではない。

これは、昨年の法大ECでも引用した、ベルナール・スティグレールの著書、『象徴の貧困』の訳者あとがき(p243)からの引用である――つまりこれは、『象徴の貧困』の訳者のものだ。

なぜ今これを引用したのかといえば、昨日「象徴の貧困。(ベルナール・スティグレール) 」にいただいたコメントに対して返事を書いていて、今の(私の)危機感はこれに極まってしまうのだろうなと思ったからだ。

たぶんこのことは、今年、地方のさらなる疲弊というかたちで顕在化してしまうだろう。

市場原理を最優先する政策が続けられることで、私たちは、すぐに結論を出そうと急ぐ意識の怠慢さを助長させられ続けてきた――思考停止。

そのことによって失われるものを、私はパトリと呼んでいる。パトリとはつまり、「私」や「われわれ」を向上させたいという動機付けを「私」に与えてくれるものである。

動機付け(欲望)が失われれば――それはある意味楽なことかもしれないが、私はなぜほかならぬ私であって、なぜあなたではないのかという根源的な(ラディカルな)未規定性を表出させることができなくなる。

根源的な未規定性とは、「私」や「われわれ」を向上させたいという欲望のことだ。その動機付け(欲望)が(特に地方では顕著に)失われていくように(私には)感じられて仕方がない。それは育み、培わねばならないものなのにだ。

なぜ考えるIT化だったのか、若しくは考える技術なのか

それは動機付けの問題である。

有機械者必有機事
有機事者必有機心

機械アルモノハ必ず機事アリ
機事アルモノハ必ず機心アリ

と荘子はいった。

たしかに機械、技術は日々進化していくし、私たちは、その技術を便利なものとして追っていく。私は技術の進化を否定しはしない。否定したところで技術(ミーム)は勝手に進化していくだけだ。

であればこそ、「私」や「われわれ」を向上させたいという動機付け(欲望)、その依って立つ大地であるパトリは必要不可欠なのだと(私は)思う。

パトリが失われてしまうことで、技術はわれわれに奉仕するのではなく、目先の利益のみを追求するものである、市場原理優先、合理性に奉仕しようとする。

そしてわれわれは、さらに(スパイラル的に)動機付け(欲望)を失うだけでしかない。「動物化若しくは人間の条件。(法大EC用メモ) 」。

そしてそれに気づかないまま、大きな流れに流されてしまうことで、パトリ(地方や職業的な種)もまたスパイラル的に疲弊をすすめる。

そのことで、わたしたちのかすかな向上心さえ、目先の利益のみを追求するものに向けられるだけだろう(即戦力という圧力)――いまどき、仕事を通して社員の人間的成長をはかることを目標にしている会社なんて絶滅危惧種でしかないだろう。

さもなければ、永遠の自分探しを想像界で繰り返す人々の群れ――Webはこれのベタになりそうだ。

だからこそ欲望をあきらめてはならない(ジャック・ラカン)なのだが、それ(欲望)は今、どこに生き残っているのだろう。

今年は、そういうあきらめの悪い方々と、少しでも多くつながることができればいいなな、と思う正月二日目なのであった。

象徴の貧困

象徴の貧困〈1〉ハイパーインダストリアル時代

ベルナール・スティグレール(著)
ガブリエル・メランベルジェ+メランベルジェ眞紀(訳)

2006年4月25日
新評論
2600円+税

追記:このテクストはたぶんに誤解されてしまうようなので、mixiに書いた私のコメントを追記しておこう――つまりこのテクストは私自身に向けて書かれているということだ。

職業的種というのは、私のおまんまの種というような意味であります。

長いことそれをやっていますと、それは私の一部を成してきたものですから、それは私にとっての種(パトリ)となりますね。

その種がなんらかの外圧で壊されそうになったときは、どうしましょうか、というのが私自身の危機感なのでありました(そもそも公共事業が種なものですから)。

私自身は8年間ほど、少しばかり反転をしてみたわけです。

この8年でやってきことは、種を守るということではないのです。

ただ自分自身を守ることです。

そのために種を守るということです。

それは確かに戦いですね。

でも戦っている相手はなにものなのかと。

それで気がついてみれば、自分自身と戦っている、つまり種と戦っているわけです。

これが現状です。

ここから一歩も進歩していませんわ。(笑)