生活社会

先に書いた「仮定人口試算―少子化問題は市場原理では解決できないこと。」で、環境や中景と呼んでいるものは、「生活社会」と書いた方がわかりやすかったのではないか、とふと思った。


生活社会とは、宮台真司の言葉で、善意や自発性に支えられたコミュニケーション領域のことである。つまり生活社会を重視することとは、『コミュニケーションによる信頼構築を社会のベースにせよ』という価値観である。(宮台真司:http://www.miyadai.com/index.php?itemid=164 )。

『地域社会のアメニティをどう考えるかという価値観と結びつきます。地元商店的なアメニティと、デニーズ的なアメリニティ。どっちを素晴らしいと感じるかです。』 (宮台:同)

「ようこそ、デニーズへ」は国際標準の素晴らしいホスピタリティです。でも、そこにあるのは、善意や自発性というよりも、マニュアルと役割に支えられたシステムです。これに対して、地元商店での店主や他の客との立ち話は、善意や自発性に基づきます。(宮台:同)

二項対立

これを理解するには、次のような二項対立を使うとわかりやすい。〈国家/社会(地域)〉、〈不信/信頼〉、〈流動性(収益)/多様性(共生)〉。この対立項はつながりがあって、例えば、

(1)収益を求める自由競争の優勝劣敗を放置するほど、(2)社会は不安ベースないし不信ベースで回るようになると同時に、(3)空洞化した社会は自信を失って何かというと国家を頼るようになります。(宮台:同)

「(1)過剰流動性→(2)不信ベース→(3)国家頼み(→(1)過剰流動性…)」という循環を回すのか、それとも「(1)流動性制約→(2)信頼ベース→(3)社会の自律(→(1)流動性制約…)」という循環を回すのか。(宮台:同)

自発的な個人や地域、つまり自己責任や自助努力を今は求められている。けれど、過剰流動性→不信→国家というスキームからそれは生まれにくい。しかし現実には、「(1)過剰流動性→(2)不信ベース→(3)国家頼み(→(1)過剰流動性…)」という循環に陥ってしまっている。ではそれはなぜだろうか。

種と個

(私は)ウルトラ単純に、それは種がないからだよ、って言ってしまう。つまり個はどこから生まれてくるのか、といえば、生物学的にも個は種からいずるのであって、最初に個はない――突然変異はあるけれども。個は死ぬが、種は個が死んだ後も生き延びなくてはならない。

そして私の文脈では、種とはまず中景であり地域社会であって国のことではない。国とは類であって、類とは種間の争いを調停するものでしかない。そして種は自発的な個によって変化する――ことによって種であり続ける――ことによって類を牽制する。しかしこれがうまく機能していないのはなぜかと。

種の論理

思うに、何かが――それは単純に市場原理だけではないよな気がするので「何か」と書く――、種(贈与の原理)の残像を取り払うことによって、国(類)に依存する個を作り出してしまったからだろう。それは種、つまり象徴を必要としない個である(つまり「象徴の貧困」である)――じゃなかったら、個は種(パトリ)を護持するために、とっくに立ち上がっているはずなのに、その様子は微塵もない。

小泉さんや、(それを継承した)安倍さんは、そんな現状を理解した上で、そして例えば安倍さんだと、独特(なんだかわからないという意味で)の「美しい国」という歴史観を持って、個(国民)を類(国家)に直接接続させようとしている。その(中景=種=贈与の原理)撲滅手法として市場原理を使っている。つまり小さな政府ではなく、大きな種をつくっている。

しかし(私は)国は種ではなく類であり、人々を国(類)に接続させたいのなら、種を中継させることは必要なのだと考えている。種なき類(国)なんて国ではない。ただの地方(種)だ――と書いて、ああ、日本って、米国(類)型のマーケット・キャピタリズムからすれば、ただの一地方(種)なのだろうな、と思って納得してしまった次第。(なのでこの後が書けなくなってしまった)。

フィロソフィア・ヤポニカ

そして「種の論理」については、中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』を読んでね(わかりにくいけれども今はこれしかないのよ)と書いておしまい。