午前7時20分起床。浅草は雨。

普遍経済学「交換の原理が僕たちを定義しようとしているとき、僕たちは情報を発信しながら、定義されることから逃げ続けなくてはならないだろう」。

これは16日の午前中、空知建協に顔を出したときに、居合わせた皆さんとはなしたことだ。

交換の原理の支配力が強いとき、私たちの取れる戦略はふたつあるだろう。

ひとつはその大きな流れに身をまかせてしまうこと。

もうひとつは、その大きな流れに乗りながらさらに加速することで独自性を保つこと。

交換の原理の支配とは――つまりは私たちを労働力という商品として値踏みしようとする運動が支配的な状況である。


交換の原理を思い出していただきたい。

交換の原理

  1. 商品はモノである。つまり、そこにはそれをつくった人や前に所有していた人の人格や憾情などは、含まれていないのが原則である。ほぼ同じ価値をもつとみなされるモノ同士が、交換される。
  2. 商品の売り手は、自分が相手に手渡したモノの価値を承知していて、それを買った人から相当な価値がこちらに戻ってくることを、当然のこととしている。
  3. モノの価値は確定的であろうとつとめている。その価値は計算可能なものに設定されているのでなけれぽならない。

そこに身を委ねてしまうということは、私自身を積極的に計算可能にすることでしかない――公共事業の一般競争入札化はその典型でしかない。

派遣やフリーターという生き方も、私自身を時給に換算するということ――つまり交換の原理に定義されることでしかないだろう。

それは、なにかで大当たりして、成金的に金持ちになることも同じだろう――交換の原理が少ない確立で大当たりをつくるのは自らのシステムを維持するための進化戦略のようなものだ――だからこそ交換の原理の下では貧富の格差は大きくなる。

私はどうやったら時給850円から脱却できるのか

しかし交換の原理は、今ここにある現実でしかなく、それを否定したところで、それがなくなるわけではない。

では如何にして、資本の値踏みから私自身をずらし続け、私自身の独自性を保てるのか――若しくは私はどうやったら時給850円から脱却できるのか。

その思考の過程をうだうだ書くつもりはない――結論じみたものを書いてしまおう。

贈与と純粋贈与と純生産

中景・パトリ・贈与の原理が働く場と、それがつながる純粋贈与という対象、つまり私が携わることで生まれる純生産――それは絶えず資本の値踏みから逃れようとしている――が必要なのである。

協会とか会社というのは、まず何よりも交換の値踏みから逃れるための贈与的共同体でしかない。

つまりそれが壊れれば、私たちはいつ時給850円と値踏みされてもおかしくないということだ。

しかしそれらも今や絶滅危惧種でしかない。

ではそれはなぜだろう。

情報を発信すること

これも簡単に書く――それは自らを語らないからである。

交換の原理に接続しながら独自性を保つには、自ら情報を発信し続けるしかない(それも純生産としての)、とうのが(私の)結論なのだ。

自ら情報を発信し続けることで――つまり自己言及的に情報を発信し続けることで、私たちは変化(進化)し続けることができる……ことによって種(私が属する中景)も変化(進化)し続ける――オートポイエーシス若しくは種の論理。

それは現実をみれば直ぐにわかることでしかないだろう。

今淘汰されている中景は物言わぬ贈与共同体であることで――変化(進化)しない共同体なのである。そのことで資本の流れに飲み込まれてしまっただけなのだ、と(私は)思う。