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純粋消費、もしくは「一生遊んで暮らしたい」。

純粋消費

純粋消費ってなに?

ところで、普遍経済学トポロジーにある純粋消費ってなんですかね、とたずねられ、ああそういば純粋消費のことを何も書いてこなかったよねと。それはたぶんに片手落ちだと思うのでこのエントリーを書くことにした。

一生遊んで暮らしたい 

純粋消費は「一生遊んで暮らしたい」という欲望のことだ。それは象徴界に「交換の原理」が居座る消費社会では第一義的な欲望だ。それはまた、我々の人生に現実にあったある時代への渇望でもある。 


この理解には、日本の戦後高度成長期(消費社会=国民総中流の時代)以降の、「子供」という存在を考えてもらえばよい。

「子供」は遊んで暮らしているし、それどころか社会的に「保護」されてもいる。

この国では(というより近代化の進んだ国では)、成熟しない者は、社会の再生産に加わる責任を負わない。つまり何の生産に関与しなくとも(労働主体でなくとも)、社会的に非難されることはない。(モラトリアム)。しかし彼(女)らは消費主体としては一人前なのである。

消費主体

団塊の世代である自分たちはお手伝いをして褒めてもらう、つまり「労働」により「家族という最小の社会」で認めてもらうところから社会関係に入っていった。ところが今の子供はお金をもって店に行けばお客様扱いされるのであり、いわば「消費」から社会に入る。大きくいえば現代では「社会システムの全体が、『労働主体』ではなく、『消費主体』中心に構築されて」いる。そして「消費主体として生きるというのは、集団に帰属せず、個人の欲望を軸にして生きる」ことだ。(内田樹

消費社会は象徴界を「交換の原理」が支配した社会であり、象徴の貧困もしくは「中景」あるいは「象徴界」の衰弱の時代である。そこでは誰もが、消費主体(消費する者)として自己を確立するしかなく、商品であろうがなかろうが、どんなものでも記号化され消費の対象となる(消費される)。 それはまた、「集団に帰属せず、個人の欲望を軸にして生きる」ことを意味するのは、内田先生のいわれるとおりだ。

純粋消費者

ただ純粋消費はちょっと違うのである。鏡像段階たとえれば、「純粋消費者として生きるというのは、想像界的集団に帰属し、個人の欲求を軸にして生きる」ことだ。

モラトリアム期の「子供」は、労働主体であることを免除れ、その上、手厚く保護された特権階級なのである。あるのは欲望ならぬ欲求だけである。それを純粋消費者、と(私は)考えている。

それが純粋消費主体ではないのは、純粋消費者に主体はないからだ。(つまりは鏡像段階だ)。その立場を、労働主体だろうが、消費主体だろうが、「主体」となることで去勢された我々はそれを欲望の対象としてしまう。

その欲望は、(大人になっても)よく記憶している無意識、というような不思議なものであることで、今という時代には特によく機能していると(私は)思う。しかしその欲望の対象は、そもそもが欲求レベルなので、この欲望を達成しようとすると、その行動は実に子供っぽくなるか動物的なものとなる。(笑) (以下、欲望と欲求は区別して記述しない)。

無の悦楽

ここでラカンの精神分析を持ち出せば、純粋消費は(ボロメオの結び目では)無の悦楽の位置にあたる。

ボロメオの結び目 光の三原色

この「無」は「無」とはいっても何も無い無ではなく、それは想像界、象徴界、現実界の三つの界の重なりにある。それを例えるなら、光の三原色(RGB)の重なりが白である、ということだろう。

つまり、白は白からいずるものではない――これがインクの三原色だと、白は黒になるが、それも同じことだ――、と同様に、無は何も無いところから生まれているのではなく、むしろ無は、無を生み出すための前対象の集合のようなものだ、ということだ。

この場合の前対象とは記憶にならない記憶つまり無意識のことだ。純粋消費も、この無意識的なものが機能する消費であることで、純粋消費の「無」とは、主体が無いという「無」なのである。つまり「一生遊んで暮らしたい」というのは、他者との関係(社会的関係)には責任を負わない、一切の「主体」的なものからの免除された悦楽なのだ、と(私は)考えている。そしてそれを「自由」と考えている人も多い。

消費社会とスキゾ

この欲望を「自由」として肯定した戦略が浅田彰の「スキゾ」だろう。 それは「子供」であり続けることの肯定的戦略である。つまり「 《パラノ人間》から《スキゾ人間》へ、《住む文明》から《逃げる文明》へ」(『逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)』)なのであるが、当時、キッズ・子供=弱者という単純な理解からスキゾは弱者の戦略として理解されていた(と思う)。

その弱者が逃げる対象は、贈与の円環(プレモダン的な贈与共同体の呪縛)であるのがいかにもなのだが、その呪縛を交換の原理によって断ち切ることで〈私〉は自由を確保しようとする。しかしそれは、実際(現実の生活)では、労働主体<消費主体、収入<消費、である続けることでしかないのであって、いたずらに消費(モノでの充足)を刺激する。なので多くのマーケティング関係者は浅田に好意的であったわけだ。

プレモダン、モダン、ポストモダン
(浅田彰: 『構造と力』:p236)

スキゾの限界

消費主体として逃げ続けるスキゾ・キッズは、たしかに共同体性破壊の大きな要因となった。しかしそれは新たなる不自由の始まりでもあった、と(私は)思う。スキゾは、なによりも消費主体であることで、個人の欲望に忠実である。しかしそのことで、この戦略は破綻するしかなくなってしまう。

なぜなら、逃げ切れなくなってしまう、のである。単に消費主体であり続けるのなら、やがて逃走資金は枯渇する。(笑)

逃走資金がなくなれば、(普通は)働いてお金を稼ぐのだが、クレジットカードや消費者金融(今思えばすばらしい名指しである)の信用取引が普及すると、(一時的に)収入(資産)<消費であることが可能となる。しかしそれは、いつまでも続くわけがないのは当たり前なので、〈私〉の信用は、交換の原理によって値踏みされ、多くは労働主体に戻ることを強要される。

強者の戦略

ここでスキゾは、あらかじめ強者である者に有利に働くことになるだろう。つまり、最後まで逃げ切れる可能性が高いのは、もたざる者(弱者)ではなく、職業的「強者」(成金)か、親の資産への依存者なのである。そのことで、スキゾは弱者の戦略ではなく、強者の戦略となる。

それが単に消費に回せるお金の〈多/少〉の差異ならまだ挽回の希望もあるが、マーケティングが、縦の差異(ファーストクラスとエコノミーの差異だね)をつくり出した途端、それは社会的・文化的な格差(縦の格差)として固定しはじめる、というか実際にそうなった、といわれている今日この頃。

戦後レジーム

それをまがりなりにも抑止してきたたのは、安倍さんの嫌いな「戦後レジーム」だろう。国民総中流を目指した開発主義である。それは消費主体<労働主体であることを強調した政治経済システムであった。それが、消費主体>労働主体を生み出す母体となった(経済成長をもたらした)こともたしかだが、私は戦後レジーム、開発主義は、簡単に批判されるだけのものではない、と考えている。

手段

我々は純粋消費を欲望する。これは否定しようがない。純粋消費は、消費主体として社会とのかかわりを始めざるを得ない我々には、消したくとも消せない欲望だ、と考えるしかないのである。なので、私たちは何かといえば擬似的に同じようなものをつくろうとする。それも止めようがない。

だから問題は、その欲望に近づくための手段となる。そのひとつがじつは共同体性なのだが(前述の「戦後レジューム」)、多くの共同体性が破壊された今、我々はITを利用してそれを実現しようとしているように思える。

金融資本主義と純粋消費者

それはまず「金融資本主義は労働力を必要としないのだから、ニートもフリーターもたいした問題じゃない。では、それでよいのか。」ということである。

金融資本主義は「交換の原理」の強烈な強調でしかないことで、そこでは(マルクス経済学では)究極の商品であった労働力さえ、じつはいらない。 労働者は労働主体ではなく、ただ消費さえしてくれればよいのである。(消費主体――つまり消費するためのお金さえ持っていればよい存在)。 極端なはなし、金融資本主義では、ニートでも、フリーターでも、ひきこもりでも、消費さえしてくれれば、なんでもよいのである。(それらは、たいした問題ではなくなってしまう)。

金融資本主義(株でもFXでも先物取引でもなんでもよい)で生きるなら、我々はべつに労働主体であることを強要されないだろう。金融資本主義の流れにうまく乗ることができれば、「一生遊んで暮らしたい」は無理としても、社会的再生産の枠に囚われず、労働主体<消費主体として存在することが可能である。

さらには、交換の原理に値踏みされる――時給850円も、じつは労働主体であることの回避実践なのではないか、と思えたりもする。(スキゾは、ここである程度うまく機能している、といえるのかもしれない)。

インターネットは母性化する

そしてもうひとつは「鏡像としてのWeb」である。インターネットは、擬似的に、心理的に、「保護」の機能代替としての母性的なもの(共同体性)をつくりだしている。金融資本主義や、交換の原理の値づけが徹底すればするほど、我々の欲望は無意識の表層にある「子供」を志向してしまう。

それはなによりも「主体」であることの回避なのだが、それは「鏡像段階」と同意である。主体でないものは母性的な「保護」を渇望することでインターネットはますます母性的になっていくだろう。つまり、インターネットという母性的なものに包まれながら、金融資本主義で生きる(もしくは時給850円で生きる)。

そのような生活をしている(ニートでも、ひきこもりでも、オタクでも、名指しはどうでもよい)彼(女)らは、「想像界的集団に(薄く)帰属し(軽くへその緒がつながっている)、個人の欲望を軸にして生きる」ことで、純粋消費を擬似的に実践しようとしている可能性がある、ということだ。そこでは、「労働は善である」というかび臭い開発主義時代の価値観は壊れてしまっている。

純粋消費に一番近いところ

しかし「労働は善である」という価値観もまた、純粋消費へ近づくための手段のひとつなのである。(戦後レジューム)

私は、「純粋消費」という欲望は、この国では強調される必要はない(それは存在するが、ことさら強調の必要はない)と考えている。例えばそれは、浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。ということだ。

つまり、この国の人々は、集団に帰属しながら、個人の欲望を軸にして生きることを追求してきたのだ、と。それは、「純粋消費」に一番遠いところにいるよう思えたものが、実は一番近いところにいた、ということだ。

それを徹底的に壊しているのが、昨今のネオリベ的風潮だと(私は)考えている。私から言わせてもらえば、小泉さんはネオリベ的政策を強調することで、「純粋消費」の中の欲求的なものを刺激し、その獲得手段としてただ消費主体であることを強調している「スキゾ」の焼き直しをやったとしか思えないのである。それは強者の戦略であり、格差を再生産することは先に書いた。

なので私は、こんな時代に、インターネットという母性的なものに包まれながら、金融資本主義で生きる(もしくは時給850円で生きる)という戦略に共鳴する部分を持ちながらも、集団に帰属しながら個人の欲望をあきらめないこと(つまり「種の論理」)を考えていたりするのである。(それは私の「自由」の追求、つまり「思考の自由」としてである)。

Web2.0 の無料経済の純粋消費性

最後に、Web2.0 の無料経済の純粋消費性にも簡単にふれておこう。といっても、次のフレーズでことは足りてしまうだろう。

例えばGoogleの無料経済が、多くの方々に受け入れられてしまうのは、それが純粋消費に近づこうとする手段としての、単なる消費主体ではないなにものか、だという期待からではないだろうか。ということで、午前6時起床。浅草は曇り。

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情報の消費という情報、若しくは編集・過程・プロセス・かかわる、そしてWeb2.0的。

あたしの消費者時代の記憶(たいしたモノではないけれど) ... 続きを読む

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