ヤマザクラヤマザクラ(上野東照宮)


満開の定義

午前3時5分起床。浅草はくもり。昨日の午前中は暖かい日で、つまりは絶好の花見日和であった。あたし達は朝早くから上野のお山へ花見へ出かけたのだ。桜も人出もまさに満開であった、と書きたい処なのだが、今一の花と今三ぐらいの人出であった(笑)。しかし、この日は花見である、あたしの「満開の定義」はこうだ。

あたしは花見が好きである。好きといっても、花を眺めながら酒を飲むのが好きだとか、ブルーシートで陣取りをするのが好きだとか、そもそも桜の花が好きだとか、というようなものではなく、ただ、桜の咲くころの光が好きなのだ。その光を通して見える(世界)が好きなのである。

その光という形容も、抽象的でなんだかわからないものだろうが、それは桜の花が咲く以前とはあきらかに違った「色」なのだ。つまりは空気の屈折率、密度、スカスカ感、不純物混合率が違う。

一年中で一番空気の粒が"きっちり"と並んでいるなと感じるのは冬で、夏場は逆にスカスカで不揃いである。花見の頃の空気は、整列していた空気が崩れかけ、その隙間に不純物が混じり始まるのである。

その不純物も粒が大きい。それで光も不純に屈折するのだが、その不純に屈折した光を通して見る(この世)は、輪郭のぼけた水彩画のようなもので、その境界性のなさが(あたしは)好きなのである。桜の花はその象徴のようなもので、光をきちんと反射しない。満開の桜は光的にぼけている。(「上野へ花見に出かけトルネードポテトを食う。」 from モモログ)

桜が綺麗に見えるのはいいがなにか物足りない

そう、ちょっとぼけた花の風景こそが満開の証なのである(笑)。だから、昨日の花は満開ではなかった。幾ら世間が満開だと云っても、TVで流れる映像が満開(ぽい)であったとしても、あたしの目にはまだ満開ではないのである。そして、歩くあたし達は、花見ではあるのだが、なにも準備はしてこなかったのだ。

それは他の人達も同じようで、花見で一杯やろう、というような豪気な人はいない。それもそのはずで、「桜通りは右側一方通行お願いします」の立て看板が立っているのだが、その指示の通りに、皆で静かに歩いている。なんという従順な国民か、と思うのだが、これに逆らったところで何かいいことがあるのか、と考えれば何も無い。

つまり、今年の花見は花見とは云え、本当に花を愛でるだけなのである。 あたしは「桜通り」を後にし、「上野東照宮」のヤマザクラをみて(本当にこれが一番綺麗な桜の花だと思う)。何時もは出店で混雑している界隈であるが、今年は一軒もそれがない、逆に参道の花がとても綺麗に見える。

その後「弁天堂」に向かう、「弁天堂の子宮的構造」の中に入った。「弁天堂」の参道(産道)には、パラパラとだが屋台も出ていた。だけど、ここも本来なら人に溢れていなければならないはずなのに、それは来年のことだろうか、と裏の道を抜けて花見を続ける。

そのパラパラ加減かえって良い感じなのだ。そう云えば去年は花見も出来なかったよね、と家人と話した。2年振りの上野のお山は賑やかなんだろうが、こんなもんじゃなかったと話していたのだった。

看板

動物園前からの桜通り

上野東照宮

スワンボート