ベルナール・スティグレール(著)
2006年4月25日 |
スティグレールのこの本は、法大ECを受講されている方からおすすめいただいたものだ。スティグレールの名前は、ネット上では時々見かけてはいたが、著作を読むのは、これがはじめてである――というか、今のところ、これしか翻訳されたものはないようだ。
ステファヌ・マラルメと中沢新一
まずは、「まえがき」の前に、ステファヌ・マラルメ(「骰子一擲」の作者、詩人)の名前をみつけた――マラルメの引用があるだけで、この本の大体の雰囲気は掴める。マラルメは、ある意味ランドマークのような存在である。
そのような出来事に無関心でいられる者もいる。彼らは、人々が味わう喜びのうちに多少は珍しく崇高なものがあることを除けば「詩(ポエジー)」という名で知られる、唯一、はかりしれないほど貴く高尚なものの状況については変わりがないと思っているからである。「詩」は別格なままであろう、ページ以外のところへと飛び立つそのかすかな揺らぎは、新聞の急拵えで広範な紙を両手に掲げたその広がりによって物真似されているが、ただそれだけだ、と考えるのである。しかしながら、新聞雑誌がかしこくもその手段を譲りつつある現在の異常なまでの過剰生産を見ると、実は、きわめて決定的な何ものかの観念が入念に作り上げられつつ、支配的になろうとしているのだ… (『象徴の貧困〈1〉』:p14)
私はこの引用を読んで、中沢新一の 『フィロソフィア・ヤポニカ』の一節を思い出していた。
マラルメ詩が小さな帆船に乗り込んで漕ぎ出した、近代の荒れ狂う多様体の海は、百年後には比較的穏やかな乱流となって、表層の全域にそのカオスの運動を繰り広げるようになった。そのことは、もはや「高踏的」な知的エリートばかりではなく、インターネットを手にした多くの大衆の体験し、知ることとなったのだ。マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張り巡らせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した。これに対してネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているに過ぎない。それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。ハイブリッドの氾濫、それはまぎれもない現実であり、十九世紀にマラルメのような人物がはじめて意識した問題は、いまや今日の大衆の実感になっている。(『フィロソフィア・ヤポニカ』:p365)
スティグレールの問題意識
スティグレールの問題意識は、マラルメが百年前に、詩人故の感性で感じた、崇高なるものの衰退であり、中沢新一が、「フィロソフィア・ヤポニカ」(日本哲学)の探求中にみた、スーパーフラットでハイブリッド化した今という時代であり、私が使う言葉でいえば、「象徴(中景)の喪失」が(逆に)もたらす円環(たわいもない会話)の再生産=「1.5の関係」――東浩紀流にいえば「動物化」の問題にある、と考えている。
それをまとめてしまえば、「この空虚な象徴界をどうしようか」ということになるだろう。
われわれは自分を求める欲望なしに他者を求めることはできない。
未来の自分、変わり得る自分に敬意を抱くという意味での
本源的ナルシズムなしに他者を愛することはできない。シンボル(象徴)とは、
知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と
感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)の双方を指す。
この象徴の力、意味を生み出す力が今、
ハイパーインダストリアル社会の中で貧窮状態に追いやられている。
個体化(自分になること)の衰退、欲望する個(自分)の枯渇・喪失。
他との関係によって成り立つはずのわれわれの生の営みそのものが
足音を立てて退化、解体させられようとしている。「われわれ」というものを問う思想、それがスティグレールの思想の根本である。(『象徴の貧困〈1〉』:カバー裏書より)
人間の条件(ハンナ・アーレント)
引き出しの少ない私は、最初にこれを、ハンナ・アーレントの「人間の条件」に対比しながら理解しようと試みた。
動物的 | レイバー(労働) | → | 生物的な欲求 |
↓ | ワーク(制作・仕事) | → | 職人的創造から芸術的な創造まで |
人間的 | アクション(活動) | → | コミュニケーション |
アーレントによれば、真に人間的であるのはアクションであり、コミュニケーションということになる。
ただコミュニケーションには、レイバーやワークに従属しているものもある。しかしそれは真のアクションではない。真に人間的なものは、レイバーやワークから切り離された、コミュニケーションの為のコミュニケーション(としてのアクション)である、とされる。
しかし、今私たちが直面しているのは、これとは全く違った事態だろう。
アーレントのいう「真に人間的なもの」であるアクションを、どこまでも純化してみたら、つまりコミュニケーションのためのコミュニケーションを、レイバーやワークとの関係から解放してしまったら、それは人間的じゃなく動物的なものになってしまった。
「象徴の貧困」とは、コミュニケーションをワーク――職人的な創造や芸術的な創造から切り離してしまったようなものではないのか。 (参考:東浩紀,大澤真幸:『自由を考える』:p110-113)
象徴(ギャル文字での理解)
そして恒例、「ギャル文字」での象徴の理解。(笑)
それはまず、日本語という言語による抑圧不全に始まる象徴機能の一部停止である。そのおかげで創造性は働き、ギャル文字という、ある種のブリコラージュは生まれている。ただ、そのギャル文字がなんの為に使われているのかといえば、それは仲間同士の親密さの強調の為であり、スティグレールの言葉では「みんな」の意識が働いていることであって、それは(個体化を志向する)「われわれ」ではない、ということになる。
「われわれ」と「みんな」と個体化
「みんな」とは、私の言葉では、「種に溶けた個」であり、「われわれ」とは、「種においてエッジのたった個」(つまり個体化を志向するプロセスとしての個)だと理解してよいかと思う。そしてスティグレールは、この時代に、そのような「みんな化」が進展している現状を嘆き、その原因を探っている。簡単にいってしまえば、その原因は「ハイパーインダストリアル社会」であり、ジル・ドゥールーズのいう「コントロール社会」にある。
個体化とは、特異性を求めるプロセスである。
私の特異性に私は直接触れることはできない。特異性とは本来、計算不可能なもの、あらかじめ知り得ないもの、私が求めると同時に封じ込めようとしているものであり、それはいわば私の中にいまだにない私であり、あるいは私の中にいる他者である。そして、自分の中のその欠如を埋めようと手探りで向かうプロセスがまさに個体化(自分になること)なのだ。(訳者あとがき;p242)
スティグレールの「私」(心的な個)は、集団的個である「われわれ」に属している。
「私」というものは集団的な歴史を継承し、それを取り入れることで構成されるからです。そしてその集団的歴史の中に、複数の「私」たちが自分の姿を認めているのです。(p126)
バロックの館
それを、バロックの館(ライプニッツ的な個)に照らし合わせてみれば、下の図の一階部分が「われわれ」であり、二階部分が「私」である。「私」(二階)は窓を持たない。一階部分の小さな窓から採光することで、二階の布の襞には、闇ではなく陰影――深く味わって初めて分かる、含みと変化――は生まれる。つまり、個は基底としての「われわれ」を通して「個体化」する。
過去把持装置
この一階部分を、私は普段、「共同体性」(パトリであり種である)と呼んでいるが、スティグレールは、「共同体性」という語彙を使わない。
スティグレールにおいて、個別化における「私」と「われわれ」を結ぶものは、非常に具体的な条件を持つ前‐個体的な環境である。スティグレールはそれを過去把持の装置と呼んでいる。それはフッサールの現象学を援用してのものだと思う。
そしてこの装置は、技術的な環境によって支えられている。「私」と「われわれ」の個体化は――「われわれ」も個体化するものとして扱われている。それは「私/公」の相対的な関係であり、日本的な「私/公」の関係(例えば「イエの原理」)に似ているように思う――、その意味で、ある技術のシステムの個体化でもある。
この認識の仕方――共同体性ではなく技術に個体化の基底を求めることが、スティグレールのかっこよさだと思う。
過去把持に関しては、フッサールの第一次過去把持、第二次過去把持に加え、彼独自の?第三次過去把持という概念を加えている。 第三次過去把持とは、第三の記憶であり、それは技術ではあるが、遺伝的――gene的なものでも、後天的なものでもなく、後成的系統発生(エピフィロジェネティック)――私の語彙では、たぶんミーム meme が一番近い――な、それぞれの時代としての過去把持の装置を作り上げる。
そして「私」というものは、(その技術的)集団的なミーム――スティグレールでは「歴史」を継承し、それを取り入れることで構成される。
なぜなら人間は、今日で言う「幼形成熟」であるために、根源的に「補綴物を持たざるを得ない」という運命に脅かされている。(p41)
人類を根源的になしているのはその補綴性であり、それは第三の記憶つまり技術を有しているのですが…(p131)
補綴物とは技術である。つまり、スティグレールにおいて、技術は人間の実存の延長ではなく、逆に「人間」性をなしているのが補綴性(技術)なのである。これはまさにアーレントの人間の条件の逆説である。
であれば、問題は、「ハイパーインダストリアル社会」、「コントロール社会」が作り出す、第三次過去把持とはなにか、そしてそれは、個体化において、どのような影響を及ぼしているのか、ということになる。
高度に技術化された社会では――そもそも技術そのものが「個」であるにもかかわらず、技術は人間に属する必要がなくなってしまっている。
そこでは、象徴としての技術は機能せず(人間に属せず)、抑圧不全の社会が描かれることになる――日本における労働市場のフリーター化、マクドナルド化におけるマニュアル化を思い出して欲しい。
ボロメオの結び目
ここでのスティグレールは、ラカンニアン的である。抑圧不全は、当然に欲望を萎えさせる――欲望は象徴界が出来上がるための抑圧がないと生まれない。私が普段使っているPPTでは(↓)の図になる。
つまり、「コントロール社会」では、抑圧不全により、象徴界はスカスカなのだ――ついでに無意識‐欲望も萎える。
そこには象徴の機能代替物としての、「コントロール社会」――つまりマーケッティングが生み出す、「みんな」という感情が居座り、その感情‐感性を技術的にコントロールすることで――例えばプロファイリング、それは欲望ならぬ、消費の同一的な情動を再生産している。
そう、われわれは、(労働者としてよりも)消費者としてコントロールされ同一化されるのである(マクドナルド化)。 それが「ハイパーインダストリアル社会」である。(『ウェブ進化論』がいっている「パーソナル化」は、スティグレールにかかれば、「コントロール社会」の具現化の一端にしか過ぎないだろう。)
日本の代表的ラカンニアンである斉藤環流に云えば、象徴界はなくなりはしない。ただ今という時代に、そこには感情が居座っている、という。それがまさに「象徴の貧困」なのだと理解することもできる。
(精神分析的に)われわれは自分を求める欲望なしに他者を求めることはできない、のであるなら、つまり、個体化(自分になること)の衰退、欲望する個(自分)の枯渇・喪失。他との関係によって成り立つはずのわれわれの生の営みそのものが、足音を立てて退化、解体させられようとしている、というのが、スティグレールの主張の(粗っぽい、私なりの)理解である。
ITが普通にある時代
たぶん、突っ込みどころは沢山あるかもしれないが、私はスティグレールの主張には、大筋で賛同ができる。私が「考える技術」講座で使っている「ITが普通にある時代」という時代認識は、スティグレールの云う「象徴の貧困」の時代のことでしかない。
Web2.0 memeと「象徴の貧困」は、同じ事象の表裏の関係でしかない。そしてそれは止まらない「大きな流れ」である、という認識から、はじめている――どうやったらこの資本の運動を止めることができるのだろうか――。
ついでに書くが、私の「考える技術」の狙いは、
とりあえずは、大きな動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つ。
(川俣正)
にある。独自性とは、スティグレールの言葉でいえば「個体化」である。つまり「考える技術」とは「個体化」を志向しながら、「大きな流れ」に――それ以上のスピードで流れることで立ち向かう、ささやかな抵抗運動である。
そして、「考える技術」でいう「象徴の一部否定」の「象徴」とは、今という時代に象徴界に居座っているもの――「象徴の貧困」における「貧困な象徴」、つまり、コントロールされ同一化された、私の情動であり感情である。その欲望でさえないものを、私は一部否定しようとしている。
日本的な「象徴の貧困」
さらに、スティグレールのいう「みんな」とは、日本語でいえば「世間」のことであり、「社会」ではないだろう。
であれば、私たち日本人は、「世間」が象徴界にあることには、慣れっこなのである。
それは確かに「象徴の貧困」だし、近代化先進国から見れば、個の未成熟であり、社会の未成熟であり、近代化の未熟でしかない。
しかしそこで生きる「われわれ」は、西欧の近代化とは違った、長い産業化の歴史(過去把持)を持つことで、「象徴の貧困」における生き方にミーム的に適応してきた。
それは、西欧の「象徴の貧困」に対して、ある種のヒントを提示できるように思える。
つまり今という時代は、日本人的なバイロジック(雑種性)にとっては、ある意味有利な環境なのである――私はそういう意味で、日本的なものを再評価しているに過ぎない。
恥を知る
たぶんスティグレールは、「象徴の貧困」が、止まらない「大きな流れ」であることは百も承知の上で、その種明かしをし、政治的な発言をしているのだと思う。それはそれで意味のあることだと思うし、政治的な発言は必要なことだとも思う――それはなにか宮台真司的であるなと感じている。
スティグレールは、文明国に今、果てしなく蔓延する「象徴の貧困」という現実を、”これは恥ずべきことなのだ”とさらして見せている。
この「恥を知る」とは、私の言葉では「象徴の一部否定」である。つまり象徴界に居座る「感情」と、それを作り出しているもの――コントロール社会の一部否定の精神である。
最近の日本を見ると、――特に政治においては、この国も、西欧的な「象徴の貧困」状態にあるように思える。
それは政治のマーケティング化(ポピュリズム)といえそうなもので、私たちは、この事態を「恥」として知ることから始めるべきなのだろうが、はたしてそれ(恥)を感じとることのできる精神は、今どれほど生き残っているのだろうか。
さらにいえば、象徴界の空席を、(感情以外の)何で埋めようとするのか、という問題がここにはある。
それには様々な意見があるだろう。例えば宮台真司は、天皇、亜細亜主義を――アイロニカルにと云う限定条件をつけて持ち込もうとする。一方、戦後の民主主義憲法を持ち込もうとする意見もある。(例えば大塚英志)。
これについては、(私は)「感情」でいいんじゃない、と考えている。
それは、先の言葉では、「恥」を恥として感じることのできる精神の残り火に賭けている、ということでもある。それは、私たちに、「象徴の一部否定」の精神が機能する限りにおいて、ということでもある。
しかし問題は、返す返すも、はたしてそれを感じとることのできる精神は、今どれほど生き残っているのだろうか、ということだ。
(編集中)
Comments [3]
No.1voleurknknさん
「象徴の貧困」をめぐる議論がまとめられていて参考になりました。
ぼくもスティグレールの「後成系統発生」の概念からミームを連想しました。
個人的には、スティグレールの技術論を進化論に大きく引きつけて捉えていきたいと思っています。
ちなみに、当方のブログでもスティグレールに関して文章を書いています。
「象徴の貧困」に関する議論はまだなされていませんが、お読みいただける嬉しいです。
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061222
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20061226
No.2momoさん
>voleurknknさん
当エントリーをお読みいただき、またコメントまでいただき、まことにありがとうございます。
紹介いただいた貴殿のブログを拝読させていただきましたが、論文からの転記ということからでしょうか、ブログでのコミュニケーション――(情報/伝達〉の差異の理解――は(私には)かなりハードなものに感じました。(なので感想を書けませんことをお許しください。)
私はスティグレールはこの「本」でしかしりませんし、また興味の対象もvoleurknknさんとはだいぶ違うかもしれません。
ただスティグレールは、技術に対して進化論――進化のアルゴリズムが働いていること、つまりミーム――的な見方をしていると(私も)思います。
ならば、技術は、進化のアルゴリズム同様、どこかで変化の契機を得るのですが、たぶんにそれは偶有的に、ですね。
ならば円環モデル的な再生産のようであるけれどもそうではなく、再帰性の中になにかが変わることを孕むアルゴリズム――言語矛盾ですが(笑)――ってなんだろうなと。
それをモデル化しようと試みているわけですが、それが職人的に身体で覚えるものであるのならば、まだ(直感的に)わかりやすいと感じています。
しかし技術(ミーム)は、例えばWeb2.0的なサービスやSuicaのように、〈私〉の外部にある記憶装置に移ろうとしているように思えます。
それさえも人間のつくったものだといわれそうなのですが、私には、技術(ミーム)は、勝手に、なにものかと相互作用的に変化(進化)しているようにも思えます。
そのなにものかが、遺伝子なのか他のシステムなのかはわかりませんが……。
私の興味は、技術が〈私〉の固体化の基底――それを私は「種」と呼んでいますが――ではなくなることです。
つまりそれが「象徴の貧困」なのだと考えているのですが、「種」としての共同体性(パトリ)を失い、さらには技術さえ失ったとき、〈私〉は如何にして固体化していく(し得ない)のだろうか、ということです。
残るのは言語とたべものかと思っていたりもするのですが……。(笑)
そんなことを考えておりました。
ちゃんとした感想も書けないで申し訳ないのですが、今後とも宜しくお願いいたします。
No.3voleurknknさん
>momoさま
拙文をお読みいただき恐縮です。
「パトリ」を取り戻す、というような問題意識は、たしかにスティグレールももっていると思います。ただ、宮台氏とは決定的に異なる部分もあるかと思います。単純化してしまえば、宮台氏が「天皇」あるいは「アジア主義」という「上」を持ち出すのに対し、スティグレールはまず感性を持ち出すという点がそれです。『象徴の貧困』の二巻では手を使ってデッサンを描くという行為に焦点を当てられたりしており、そういう触覚に近いところにスティグレールは「パトリ」の「入り口」を見ているように思います。
ただ、それはあくまでも「入り口」であって、そこからより大きな次元へと上昇していくようなプロセスも想定されているように思います。『ヨーロッパを構成する』や『無信仰と不信』といったシリーズでは、より大きな次元での「我々」について議論されているように思います。いってみれば、感性が「我々」の芽を養い、それにもとづいて「我々」が構成されていく、というところでしょうか。
その「我々」の具体的な構成のプロセスは、『技術と時間』の三巻で、意識における「我」の統一性と「我々」の統一性の「投影」の作業として分析されています。『技術と時間』の邦訳が出れば、この辺の議論も広く知られると思うので、とにかく邦訳が待たれるところです。
ちなみにスティグレールは『無信仰と不信』のなかで、momoさまが技術的な補綴物を通しての人間の構成に関して書かれた、「アレントの人間の条件の逆説」についても論じています。