パトリとしてのおにぎり たけや
午前3時40分起床。浅草は晴れ。実家に帰っていた家人が帰ってきた。おみやげは「おにぎり たけや」のおにぎりだった。勿論あたしがお願いしたものなのだが、あたしが食べたいのは二つだった。それは「たらこ」と「味ごはん」なのである。この「おにぎり たけや」こそ、郡山に居た頃のあたしの「パトリ」なのである。
「パトリ」とは、簡単に云えば、「なぜ私はアナタではない私なのか」や「なぜここが他ならにここであるのか」という問いにあらわされる。だから(あたしにとっての)郡山とは、他ならぬ郡山であることを、明確に明らかにしているもの、それがこの「たけや」のおにぎりなのだ。
それは、例え浅草で食べようとも、である。「おにぎり たけや」のおにぎりは、本当は三角形なのに楕円形になって届いた。これはこの上になにか乗っていたことの証拠なのだが、そのいびつなおにぎりを取り出してみる。郡山にいたころによく食べたものだったが、形こそ違え持った感じはあの頃のままだった。
わたしの好きなもの
でも今は、好きだから食べる、が出来ないのだ。あたしは糖尿病である。脳梗塞を発症したし、眼底はレーザーで治療をし、腎臓も半分しが機能していない。そんなもので、「たらこ」を半分と「味ごはん」を半分だけもらう(たぶんそれでも多いのだが)。
「たらこ」を食べる。あーこの味だよ、この味が、あたしの好きなものなのだと、歓喜する。その焼けた「たらこ」の強い旨さが周りの米にジンワリと伝わっていて、おにぎりがハイブリッドな食べ物であることを教えてくれる。そして「味ごはん」だ。これは反省の味だ。あたしの失敗の歴史を知ってる味だ。
似た様なものはなら浅草にもある。けれど違うのだ。まず、おにぎりの質感が違うのである。一口食べた時の、創り出すその世界感がまるっきり違うのである。この「おにぎり」を食べることによって生まれる世界感、これが[パトリ」の持つもう一つの特徴だろう。「反省」の味なのだよ(笑)。
そしてこの日は、「たまり漬けのたくあん」と「ごぼういり」があった。勿論「おにぎり たけや」のものだ。あたしは「たまり漬けのたくあん」のパックをあけると、これがうまいのだよ。と云ってポリポリと食べ始める。そう、この赤い漬物のパッケージこそ、「おにぎり たけや」のもう一つの目的なのだ。でもあまり食べすぎてはいけない。塩分は要注意なのだよ(笑)。