桃知商店よりのお知らせ

格差社会について書くのはたいへんだわ。

午前7時起床。浅草はくもり。 ひできさんから「格差社会はいいことだ?」に対してトラックバックとコメントをいただいていた―― HPO:機密日誌 「格差社会の必要性?」。ありがとうございます。


これはひできさんによる格差社会理解へのアプローチなのだろうが、それは開発主義の限界を言っているのだろなと(私は)感じた。つまりネットワークのモデリングを見て感じたのは、これは格差モデルというよりも、そのトポロジーは――ひできさん自らが「贈与モデル」と呼んでいるように――贈与的な共同体モデル(の格差)に近いものではないだろうか、ということだ。

つまりそれは、集団の中から、贈与の関係(再配分システム)によって社会システム(権力)は如何に生まれ、維持されるのかを示しているのと同じであり、つまりこのモデルは、格差をある程度抑えながら経済成長を達成してきた、日本型の開発主義システムのモデルと似たようなものだろうと(私は)思う。

だとしたら、ハンカチ効果――どれかひとつのかどを持ち上げれば、全体が持ち上がる――は起きるだろうから、経済成長のためには、この程度の格差は容認されて然りなのではないだろうか。

私はそれを否定はしないけれども、問題は(かつては機能していた)その日本的な開発主義モデル――経済成長と少々の格差の両立――は、今は機能していないということだろう。だからこそ格差は生まれる。

ここで終わってしまっては元も子もないので、では、ひできさんモデル(つまり開発主義)を理想とするならば、と考えてみる。つまり、では何が足りなくて、今このモデルは機能していないのだろうか、ということだ。そしてなぜか大澤真幸さんを引用してみる。

ある程度の抽象性をもった「第三者の審級」に服属するような局所的な社会システムが、十分に多数、「意味」的な対象の贈与(「意味」の一方的な伝達)によって接続された場合、それら多数のシステムの全体に対して妥当的であるような規範の発源点へと、「第三者の審級」が統合され、接続されたシステム全体が一個の拡張されて社会システムとしてあらためて定位されるであろう。(大澤真幸:『行為の代数学』―スペンサー=ブラウンから社会システム論へ :p198)

ここで大澤さんのいう「第三者の審級」とは「大きな物語」であり象徴界のことだ。 それが資本主義の物語――たとえ、貧しいものでも、努力さえしていれば、金持ちになれる(それも現世で)――であり、その物語が私たちの希望を生み出す「大きな物語」として機能することが、(贈与ならぬ)資本主義において、ひできさんのモデルが成立する前提となる。

つまり必要なのは、機能する「大きな物語」とそれを信じることで人々に生まれる「希望」なのではないだろうか。米国にはそれがあるとされている――アメリカンドリーム?

しかし、今日本で問題となっている「格差社会」とは、そのような大きな物語が機能していない――「中景」あるいは「象徴界」の衰弱――、つまり、どんなに頑張っても将来に希望が持てないと感じる人々が増えることで起きている、というのが多くの格差論者の言っていることだろう。

であるなら、そしてそれは、開発主義モデルよりも、さらに大きな格差を生み出しているのであれば、その大きな物語の喪失と希望の無さを生み出しているものは何か、とまた考えてみるしかないのであるが、それがまた『「わからない」という方法』でしかないわけで、つまりこの辺で終わりにしないときりがないのである。

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