会田誠が描く、岡村靖幸という「光」。会田誠が描く、岡村靖幸という「光」。


会田誠が描く、岡村靖幸という「光」

午前5時20分起床。浅草は雨。巣ごもり生活2日目。2019年12月23日の朝日新聞の朝刊に載った、「岡村 靖幸」のニューアルバムの全面広告の絵の作者は「会田 誠」じゃないのか、というはなしは先に書いた。そうこれは正に「会田 誠」の作品なのだが、その絵について話している「会田 誠」の話しが聞きたかったのだ。

あの絵の真意はなんなのか?である。

そんな時、「会田 誠」のインタビュー記事が出ていた。「BRUTUS 4/1号」を購入である。その205ページ目に『会田誠が描く、岡村靖幸という「光」。』と題されたインタビュー記事が出ている。『音楽業界の奇才が出した「お題」に。美術界の鬼才が出した「答え」とは。』がサブタイトルにある。

あたしは鬼才という言葉はどうか(というか、そんな形容詞はいらないだろう)と思うが、そのインタビューに「会田 誠」のあの絵の真意があるのではないか、と読んでみのだ。そしたらその最後に以下のフレーズがあった。

僕には毒の様なものや、ネガティブな部分があるんです。Twitter でも口喧嘩をよくしますけれども(笑)、現代美術をやるにおいては、そういったものが求められる部分がありますから、自然とそうなっていくところもあるんです。ただ、いままで岡村さんのジャケットを3作描いてきて、僕の中で、岡村さんの絵を描くという行為は、僕の光の部分なんだなと思うんです。善と光の領域といいますか、それが心の救いにもなっているのです。

会田 誠という人の善

あたしはそれこそ「会田 誠」の「毒の様なものやネガティブなもの」ばかりを見てきた。そしてそれが彼の全てだと思っていた。それが「岡村 靖幸」の『』というジャケットを見た途端、確かに筆跡は「会田 誠」のものに違いはないが、作風が違いすぎたのだ。すばり真面目なのだ。

あの絵(『操』)を見てあたしは途方にくれてしまう。それが「会田 誠」のいう「僕の光の部分なんだなと思うんです。膳と光の領域といいますか、それが心の救いにもなっているのです」ならば、この作品が「会田 誠」の良心(この言葉もなんか違う気がする)なのだろうか。これはアルバムを聴くのが楽しみになってきたのだ(アルバムの発売日は4月1日になった)。

操:画:会田誠操:画:会田 誠